クリスチャンの体験談:生きて働く神さま #6

仏教大好き少年がなぜ教会へ?

  • Sさん 40代男性
 私は仏壇と神棚のある家に生まれました。神棚は三つぐらいありました。ですから、ものごころついた頃から、仏壇や神棚に手を合わせることが、私の習慣となっていました。父からは、いつも家族みんなが健康で幸せに暮らすことができるのは、なくなったおじいちゃん、おばあちゃんのおかげだから、ご先祖さまを大事にしなさい、と教えられていました。

 そういう家庭で育ちましたから、私はとても信心深い子供になり、道端でお地蔵さんがあれば手を合わせ、神社を通り過ぎると手を合わせ、拝めるものなら何でも拝んでいました。中学生になったら、ますます信心深くなりました。それは、私が入学した中学校は仏教系の私立中学校だったからです。道徳の時間にはお釈迦さんの生涯や浄土宗の開祖法然上人の生涯などを学びました。そうした授業がとても面白くて、私は仏教の教えにも関心が向いていきました。道徳の授業で般若心経を習ったときには、般若心経をすべて覚えてしまいました。

 こうした少年時代を送った私が教会に行くようになったのは、高校生のとき級友にクリスチャンがいたからでした。私のクラスの教室の黒板には、しばしば聖書のことばが書かれていました。ある放課後、教室に入ると、誰もいないと思っていた教室に、あのクリスチャンの友人がいて、黒板に聖書のことばを書いていました。仏教系の学校の教室の黒板にイエスさまの教えを書いていたのです。それだけではありません。高校2年の夏に修学旅行に行ったときには、そのクリスチャンの友人は、たくさんの友達を自分の泊まる部屋に集めて、イエスさまの教えを語っていたのです。仏教系の学校の修学旅行で聖書研究会を開いてしまったのです。けれども、そのクリスチャンの友人が黒板に書く聖書のことばも、修学旅行で友人が語ったイエスさまの教えも、私の心には響きませんでした。なぜなら、私は仏教を信じていたからです。

 私がキリスト教に心を動かされたのは、友人の語る聖書のことばではなく、友人の行いだったのです。今ふりかってたとえるなら、イエスさまのような愛の精神の持ち主だったのです。私は、友人のそうした行いに心が動かされました。高校時代、私は生徒会活動にかかわっていました。当時の私は、美術部で絵をかくことと勉強することに熱心で、そのほかの面倒なことにはかかわりたくありませんでした。ですから、生徒会活動も本当はやりたくなくて、つぶやいてばかりでした。そうしたとき、私の生徒会活動の仕事を、いつでも気持ちよく手伝ってくれたのが、あのクリスチャンの友人だったのです。いつも快く何でも手伝ってくれるので、彼にお礼がしたくなり、「僕にもできることがあったら、言ってね。」と伝えたところ、その友人はすかさず「じゃあ、一緒に教会に来てください。」と頼まれたのです。私は仏教を信じていましたから、教会に行くのは気が進みませんでした。けれども、いつもお世話になりっぱなしなので、恩返しのつもりで、その友人の教会に一緒に行ったのです。



 初めて行った教会は私の家からとても遠い所でした。私はクリスチャンの友達を喜ばせたかったのか、「この前行った教会は遠いから、ぼくの家の近くにも教会があったら行ってもいいよ。」と言いました。そうしたら、日曜日の朝、そのクリスチャンの友達から電話がかかってきて、私の家の近くの教会を教えてくれたのです。そして、「今から行けば礼拝に間に合うと思うので、行ってみてください。」と言われました。

 私は突然でびっくりしましたが、行ってみることにしました。その教会に行って、私は仏教はキリスト教に負けたと思いました。それは、クリスチャンたちが大勢、聖書の教えを聞きに日曜日に集まってくることを目の当たりにしたからです。私は仏教を信じていましたが、クリスチャンのように仏教の教えを聞きに出かけたことはなかったのです。そもそもお寺は教会のように教えを広める活動をしていません。それで、私はキリスト教の熱心さに負けたと思ったのです。その上、教会に集まってくるクリスチャンたちは、みんな喜びで輝いて見えました。私はキリスト教の教えを知りたくなりまして、すぐに聖書を買い、読み始めました。そして、毎週、教会の礼拝に出席して聖書の教えを学ぶようにしました。

 読み始めたときから、私は聖書を聖なる書物として捉え、読み進めました。いろいろなみことばが目にとまりましたが、特に私の心に響いたみことばが二つありました。どちらも有名なみことばです。一つ目は、ヨハネの福音書3章16節です。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神さまはひとり子イエスさまを十字架につけるほど、私たち人間を愛しておられるという教え、つまり、イエスさまは私たち人間を愛するがゆえに、十字架の苦しみを耐えられたという教えは、仏教では聞いたことがありませんでした。お釈迦さまが私たち人間を愛して十字架にかかったということは聞いたことがありません。私は仏教のお釈迦さまよりキリスト教のイエスさまのほうが信じる価値があると思いました。

 二つ目のみことばは、コリント人への手紙第二5章17節です。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 イエスさまを信じるなら、イエスさまは私たち人間の過去のすべての罪を赦してくださり、私たちの人生を変えてくださるという教えも、仏教では聞いたことがありませんでした。お釈迦さまが私たち人間の過去の罪を赦すということは聞いたことがありません。お釈迦さまが私たちの人生を変えてくださるということも聞いたことがありません。やはり、この点でも、私は仏教のお釈迦さまよりキリスト教のイエスさまのほうが信じる価値があると思いました。

 私たちを愛して十字架で死んでくださったイエスさま、私たちの罪を赦してくださるイエスさま、私たちの人生を変えてくださるイエスさま、私は、お釈迦さまではなく、このイエスさまを自分の信じる神さまとして選んだのです。