子育て通信 #166

イエス様は子どもが大好き

いつから子どものことが

 「私はいつから子どものことが気になるようになったのだろうか? 子どものことが好きになったのだろうか?」ふと考えたのです。
中学・高校の時、特に子どものことが好きという感覚は無かったように思います。
 しかし、大学生の時は確実に子ども好きになっていました。そこでハッとしたのです。それは私がクリスチャンになった時からかも知れないと。大学入学直前にクリスチャンになりました。大学の養護学校教員養成課程に入学してからともいえますが、クリスチャンになったことは大きな要因です。

教会で

 子どもが好きになった背景には特に二つのことがあります。
 一つは教会で教会学校のアシスタントを頼まれたことでした。初日は「嬰児科」と言って赤ちゃんクラスでした。私のほとんどの仕事はトイレに連れて行くことでした。しかし、そのクラスの先生が大学生の私がそんなことをしているのはあまり良くないと思ってくださって、翌週から小学生の方に行きました。楽しかったです。
さらにその後、中学科と高校科のスタッフになり、中学生キャンプ、高校生キャンプのスタッフとして参加するようになって、中高生のことも大変好きになりました。

養護学校ボランティアで

 もう一つのきっかけは大学一年生の時から障がいを持っている子ども達の集まりにボランティアで行くようになったことです。実習そのものは3,4年生になってから行くのですが、私の教授は一年生の時からどんどん実習するように勧められたのです。それで、私もチャンスがあると養護学校(今の支援学校)や障害児学級(今の支援学級)にボランティアで行くようになりました。そこで、障がいを持つ子ども達と接していて子ども達が好きになりました。

キャンプ大好き

 大学生、教師時代、神学生時代というのは私にとって若い時でしたから、疲れ知らずという感じでした。今とは全然違います。アトピーは治らないし、目もすでに悪かったのですが、今ほどあちこち悪くはありませんでした。
 バイブルキャンプが大好きで、小学生、中学生、高校生、青年のキャンプにはほぼ全参加していました。
 牧師になっても子ども達、中高生のキャンプの講師として呼ばれることが多かったので、春休み、夏休みはほとんど私には休みがありませんでした。
 教会の仕事で疲れてもキャンプに行くと元気になるということで、「キャンプ男」とも言われました。

 64歳になった今、心臓も腎臓も悪くなってしまったために疲れやすくなった体はキャンプさえも楽しむ事ができなくなりました。それでもキャンプファイヤーの火付けは今でも好きですね。

「ぼくなんか・・・」

 さて、話を戻します。クリスチャンになり、教会に行くようになって子ども好きになった私は子ども達の悲しんでいる姿、苦しんでいる姿を見るのが辛くたまらなくなりました。
 大学生の時、養護学校にボランティアで行きましたが、その時に出会った5年生くらいの男の子と仲良くなり、一緒にボール遊びなどをしました。
 ある時、体育館でドッチボールを使って遊んでいましたら、そっと彼にパスしたのですが、彼はボールを受け損ねてしまいました。急に彼はうつむいて固まってしまいました。そして小さな声で何か言いながら涙を流し始めました。
 私は何かとんでもない悪い事をしてしまったかなと彼のそばに行って、「どうしたの?」と聞くのですが、「ぼくなんかいない方がいいんだ」をくり返すのです。

 彼としばらく話すことになりました。そこでわかってきたのは、彼は家で「おまえなんかいない方がいい」と言われてきたことがわかりました。何度も何度も私は「そんなことないよ、君のお父さん、お母さんは君のことをとても大事に思っているよ」と話しても、「ぼくなんかいない方がいいんだ」をくり返します。
 これが何分間続いたのか覚えていません。そして、その後何をしたかも覚えていないのですが、最後は彼は笑顔になってくれたのです。やっと元気を取り戻して、彼は体育館から教室へと戻りました。彼の右手は障がいのため思うように動きません。そのためにボールをうまくつかめなかったのですが、どうやら、色々な失敗を親に責められたようなのです。

 親御さんは決して意地悪でそういう風に責めたのではないと思うのです。障がいを持っていても少しでも社会に出て行けるようにと厳しいめに言っていたのだと思います。しかし、彼のような子どもの心には「自分はいない方がいいんだ」と思うほどになっていたみたいです。
 私はこの時に子どもを励ますにはどのような言葉を使うとよいのか本当に考えさせられました。また、彼の涙を見ているとたまらなくなりました。

自閉症の女の子

 次に担当させていただいたのは自閉症の女の子でした。彼女は全く言葉が無く、しかも、何をしたいのかも全くわからない子でした。話ができないということ(通じないということ)は私にはとても大きなストレスでした。
 しかし、何とかしなくてはととにかく彼女について回りました。というか、どこに行くかさえわからないのです。突然車の下に潜り込んでしまったりするので、どう対処して良いのか、そばに先生がいらっしゃらないので、一人で解決を考えるのですが、こちらの方がパニックになりそうでした。

 「自閉症」という言葉はその頃まだ出始めたばかりで、一般的にはまだ知られていませんでした。私たちは授業で聞いて本を探すのですが、1冊しかまだ出ていないような時でした。その1冊を研究室の15名の学生みんなで読んで、「自閉症は育て方の問題だろうか?」(当時は親の育て方が悪いためにこうなる、といういい方をしていたのです)、「それとも何らかの脳障害なんだろうか?」と話し合ったのです。
 しかし、本を読み、話し合いをしても、彼女をどう指導して良いのか全くわかりませんでした。養護学校の先生に聞いても先生方もわからずにおられました。そして、彼女をプレイルームで自由に一人で遊ばせて、別室からその様子を見て指導方法を探る事をされている現場にも立ち会わせていただきました。彼女なりに何らかの遊びをしているようなのですが、私にはそれが何なのかさっぱりわかりませんでした。

 後になって自閉症は親の育て方が悪いのではなく、脳に何らかの障がいがあるために起こるのだと言われるようになって、どれほどの親御さんがホッとされたことでしょう。この時は彼女に辛さがあるのかさえわかりませんでしたが、親御さんの辛さを感じました。「親の育て方が悪いからだ!」という心無い言葉に苦しんでおられるお母さん方がたくさんおられるのだと知ったのです。こういうお母さん方が心晴れ晴れするような何かがしたいと思ったときでした。

イエス様に愛されている

 私はイエス様がこれらの障がいを持った子ども達を愛しておられることを感じていました。彼らがそれをどれくらいわかっているのかはわかりません。大人だってイエス様に愛されていることをわかる人はそんなに多くない気がします。
 いや、むしろ大人だからわかりにくいのかも知れません。愛されないと生きていけないのが子どもです。そんな子ども達だからこそ、イエス様に愛されていることを大人よりも素直に感じるのかも知れません。
 ただ、障がいを持った子ども達にイエス様のことをどのように伝えたら良いのかは未だに課題です。
 でも、愛は「頭」でわかるものではないですから、きっと愛であるイエス様を感じとってくれているのではないかなと思うのです。
 子ども達は「愛」で生きるのです。そして「神は愛です」という聖書の言葉が心に響きます。

バックナンバー