子育て通信 #147

「母」の文学講座で

文学講座に出席して

 6月17日(土)に私たちの教会(新中野キリスト教会)を会場として、三浦綾子読書会主催の三浦綾子文学講座が開かれました。私は会員では無いのですが、このすばらしい会には賛同しており、今回の文学講座に出席させていただきました。
 三浦綾子記念文学館の特別研究員である森下辰衛師が来てくださって、午前と午後に分けて、三浦綾子さん作「母」という小説を語ってくださいました。森下先生の語りはとても聞きやすく、またわかりやすく、あっという間に時間が過ぎていきました。

 小説をまず読んだことのない私、といいますか、小説を好きになれない私ですが、三浦綾子さんという方は好きなのです。ファンです。20歳くらいの時に「塩狩峠」の映画を観て感動し、一気にファンになったのです。それで、「塩狩峠」の小説も読もうとしたのですが、残念ながらやはり読めなくてほったらかしになりました。でも、牧師になってからは三浦綾子さんのエッセイなどは何冊か読みました。

母の愛

 さて、この文学講座で取り上げられた小説「母」は、小林多喜二の母セキさんの事が書かれていますが、森下先生の語りを聞きながら「母の愛」というものを痛切に考えさせられました。
 人を人とも思わないような時代があり、国家の考えに合わなければ殺すことも厭わないという世界があり、小林多喜二はむごい殺され方をしました。その息子・多喜二の遺体にすがり泣く母・セキさん、胸が熱くなるというか、その辛さが男の私にも伝わってくる内容でした。
 小説とはいえ、かなりの時間と労力をかけた取材がなされ、事実を書き込んだ小説です。だからでしょうか心を打ちました。

 息子を殺されてしまった母の心、それがイエスを殺された母・マリヤの気持ちを思わせるように書かれ、さらに「神さまは、自分のたった一人の子供でさえ、十字架にかけられた。神さまだって、どんなに辛かっただべな。」と言うセキさんの言葉。聖書の本質「神の愛」にまで言及されており、母の愛と神の愛がダブって考えさせられ、本当に心が熱くなりました。

時代が変わったのか?

 先月号で、「お父さんの子育て」として、父親のことを書きましたが、それを書くにあたって、調べている中で現代の夫婦事情や父親(夫)の葛藤など色々考えさせられるものがありました。
 その時に知った一冊の新書「夫に死んでほしい妻たち」(小林美希著 朝日新書)には驚くような現実の話が書かれています。本の表紙・帯に書かれていたのは「ウチは大丈夫?? 家事や育児、『あなたのやっているつもり』は全然足りない!! 全男性を戦慄させる妻たちの本音!」と書いてあります。「子供を保育園に送っただけでイクメン気取りの夫」など、イクメンと思っている男性自身もドキッとするような内容です。
 そして、この「母」の講演を聞いたのですが、そのものすごいギャップに頭が混乱するような感覚さえ覚えました。

 自分の夫にさえ恨みを感じ「死ね!」と叫んでしまう奥さん。一方、我が子を殺されて泣き崩れ、多喜二の遺体を抱きしめながらも恨みの言葉が聞こえない母・セキさん。小説が読めない私が思わず小説「母」を買ってしまいました。まだその最初の部分しか読んでいませんが、森下先生の言葉が思い出されつつ、なんと温かい話なんだろうと読み始めました。

親の言うことを聞きなさい

 聖書の中に出てくる多くの女性を思い出していました。それこそ人類最初の女性「エバ(イブ)」から。私は進化論的にサルのようなものから人間ができたとは思っていません。神さまが最初から人間を人間としてお造りになったと、聖書に書かれているとおりに信じています。(もちろん、昔に書かれた聖書ですので、書き方にはその頃の表現があることは否めません)
 男と女、同じ人間ですが、全然違う構造をもち、考え方、感じ方まで違い、互いに理解し合うことも難しいという男女。こんなものが自然発生的にできたということの方が、神が存在することを証明するよりも不可能なことだと思っています。

 アダムとエバが神の言葉に背いてエデンの園を追い出されました。神の言葉に背いたことが罪です。今も私たちは子ども達に「お父さんとお母さんの言うことをよく聞きなさい」と教えます。なぜ聞き従わねばならないかという理屈は幼い子どもには必要ありません。親は子どもを愛しており、安全に正しく生きるために必要だから言い聞かせます。
 神のことばに聞き従うというのも安全で正しく生きる道でした。それに反してしまったことで人間は本来の人間の生きる道を失ってしまいました。神は今もなお、「私のところに戻っておいで」と言って待っておられます。

抱きしめ

 母・セキさんの所に戻ってきた多喜二は人々の罪の結果として殺されての帰還でした。母マリヤのところに戻ってきたイエスも人々の罪の結果として殺されての帰還でした。何と罪はむごいものでしょうか。
 しかし、神はそういう人間を決して諦めてはおられません。なぜなら他の動物とは違う、人間にだけ与えられたものがあります。人間にだけ宗教心が与えられています。宗教心というのは祈り、神を思う心です。人間だけが祈ります。そして、神を愛することで、人への愛も成熟していくものです。

 セキさんもマリヤもその母の愛で我が子を抱きしめます。赤ちゃんの時に抱きしめたように。
 我が子が赤ちゃんの時に抱きしめた感覚は、異常なほどに出てくる我が子を思うホルモン(私はこのホルモンも神様が備えたものと信じています)によって、我が子が愛しくてたまらなくなり、抱きしめ、おっぱいを与え、また抱きしめるのです。
 その抱きしめは赤ちゃんの脳にしっかりとインプットされ、大人になっても「人を愛する愛」として活動するのです。

平和を!

 人は愛し合うように造られたはずなのに、罪は、人を、伴侶さえも、時には子どもさえも憎むような心を持たせるようになりました。
 いつの時代も「平和」が叫ばれています。叫んでも叫んでも平和が実現せず、「平和のための戦争」なるものさえ登場します。

 聖書には 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイの福音書 5:9)とあります。平和をつくるのです。そして、愛するのです。どちらも私たちの意思です。平和をつくる、人を愛する、と自分で決意するのです。

 しかし、神様は先ほど言ったように、特に母親には我が子が愛しいと思えるホルモンを多量に分泌させてくださるようにしてくださいました。不思議なほどに我が子を愛しく思えるようになるのです。
 男は自ら「愛する」という意思決定をしっかりとしないといけないのでしょう。

 私は、セキさんが遺体となった多喜二を抱きしめる時、母としてのそういうホルモンが分泌しているのではないかと思いました。

 なんと母親には特別な愛が与えられているのかも知れないと思ったのです。
 ですから、子どもは「母の祈りで育つ」とも言われるのはそのためでしょう。

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