子育て通信 #178

真に恐ろしいもの

ウイルスと罪

 新型コロナウイルスがこんなにまで大変なウイルスだったとは誰もが思わなかったでしょう。殺人的ウイルスであり、多くの人に不安とストレスを溜め込ませて個人ばかりか家庭をも破壊していく恐ろしいウイルスです。
 大変なウイルスだとわかってきた時、多くのクリスチャンは「人間の罪」を思い浮かべました。目に見えないけれども人に大ダメージを与えるウイルスと、目には見えないけれども確実に人を死に追いやる「罪」をです。
 「罪」という言葉は知っていても「罪」がこんなにも恐ろしいものだったと知っていた人は少ないのです。
 宗教的な言い方をすれば「罪」は死後の世界さえも左右するからです。非常に簡単な言い方をすれば、罪を抱えたままでは天国に入れない、地獄に行ってしまうということです。

罪の解決はあるのか?

 昔からこの「罪」の解決を望んで人々は様々な努力を積み重ねてきました。「悟り」を啓こうとしました。
 罪が恐ろしいものだということは知っていても、人類の歴史上それはどうしようもないことにも気付いているのです。そこで、できるだけ罪を犯さないようにすればいいのではないか、善行を積めば罪は消えるのではないかとか、勝手に自分なりの答えを作ってきたのです。
 罪の解決が必要だとわかっても、罪の解決は人間にはできませんでした。ですから罪の解決に向き合うこともしない人達が多く出てきたのです。
 しかし、聖書は罪の解決があると言っています。それがイエス・キリストです。イエス・キリストによってだけ罪の解決があるのです。これも簡単に言うと、イエス・キリストの十字架が私たちの罪の身代わりで、このイエス・キリストに従う者の罪は解決されるということです。

子どもと悪・罪

 子ども達に善悪を教えることはとても難しいことです。ましてや「罪」とはどういうものかを教えるのはもっと難しいでしょう。
 かつて河合隼雄氏の書かれた「子どもと悪」を読んだ時、子どもは悪を行って成長するものだと知りました。しかし、またその悪を行わないように育てていくのが教育だと、子育てや教育の大切さを感じました。

 人は経験しないとわからないものです。幼児期にあまり詰め込み教育をするのはよくないというのは、知識ばかりが頭に入ってもそれが何かわかっていないと実際的なところで役に立たないからです。
 幼児期はからだ全部使って遊びたがるのは本能的なものだと思います。子どもは体験を通して色々なものを理解していきます。悪に関しても悪を行うことでわかっていくのです。でも、予防接種のように、それを受けておくと、たとえ感染しても軽く済むように、子どものうちに遊びの中で悪を行う事によって「悪」「罪」を覚え、その時のイヤな気持ちも覚え、大人になってひどいことをせずに済むものなのです。

 子どもがバッタの足を引きちぎったりすると、大人は何とひどいことをするのだと思いますが、そうしたことをする事でいのちの大切さを覚えて、大人になってそういうことはしなくなるのです。また、そういうことをした子どもはひどい犯罪などをしにくくなるとも言われています。つまり「虫も殺さないような子だったのに」という子どもが大人になって恐ろしいことをしでかすことがあるのです。

法律が増えたのも

 法律は人々が安心して暮らせるようにと考えられた結果できたものですが、それが今や次々作り出され、わからないほどたくさんの法律ができました。とても覚えることなんてできません。

 道路に信号機が取り付けられたのは車が増え、人が安心して道路を渡れなかったり、車同士が混乱したからです。そうしたことを防ぐためにつくられて、「赤は止まれ」と決められました。
 しかし、田舎に行くと信号機があって赤信号になっていても全く車が来ないことがあります。そんな時、赤でも渡る人はたくさんいます。しかし、これは道路交通法上違反ではないでしょうか?
 さすがに車は止まってますが。青梅街道で歩行者が青信号になったので渡ろうとして、車は止まっているのに、自転車がサーーッと通り過ぎていくことが多々あります。私も何度か自転車にぶつかりそうになったことがあります。完全に違反です。どこかで「自転車はまあいいだろう」という思いがあるのでしょう。

 信号ひとつとっても、こういった色々な問題がある中、子ども達にはどのように教えますか? 都会では「赤は渡ってはいけない」で教えてまず問題ないでしょうが、比較的車の少ない地域では、車が来なければ大人が平気で赤でも渡っています。それを子ども達が見ているとするとどうなのでしょうか? 実はこれはなかなか難しい問題なのです。

罪に気付く時

 私が中学の教師時代に学校近くの文房具屋さんから「万引きが多いので注意して欲しい」という苦情が来ました。しかし、中学生がしているのか、小学生がしているのかもわからない中、なかなか良い指導ができませんでした。
 そんな時、遂にわが中学校の生徒が万引きをしたということで、いわゆる現行犯で捕まりました。その生徒から「自分だけじゃ無い」という話を聞き、全校で調べることになりました。「万引きをしたことがある生徒は勇気を出して、名乗り出て欲しい」と先生方は話しました。
 その時、私は「万引きだけじゃ無くて何が悪い事かよく考えてみよう」と言いました。すると、生徒の中から「バスの乗車賃をまだ子ども料金で乗ることは罪ですよね」という話が出ました。すると、そのホームルームが終わってから、数名の生徒が私のところに来て「先生、子ども料金で何度か乗りました」と告白に来たのです。「よく言ってくれたね。じゃ、どうするといいかな?」と一緒に考え、「今度バスに乗った時に、『この前子ども料金で乗ってしまったので、すみませんでした。差額をお支払いします』と言おうと思います」などの答えが返ってきました。そして、実際にそれをしてまた報告に来てくれました。「勇気がいったけれどもスッキリした」と言ってくれた顔は良い笑顔でした。
 人は罪を犯したままでは心が平安ではいられないのです。もし、その罪を悔い改めることができたなら、そして、赦されたと感じることができると人は平安になれるのです。

 

罪は赦される

 子どもが悪い事をしたら、私たちは謝ることを教えるのは子どもの心を悪くしないためです。
 誰が「これくらいはかまわない」と決めるのでしょうか? 罪は罪、悪は悪です。罪を犯しても何か善いことをすれば差し引きゼロになるのでしょうか? 確かに謝れば許されるものもたくさんあります。また、償いをする事によって許されるものもあります。
 しかし、謝っても赦されない、償いさえも役に立たないほどの罪があるのも事実です。
 実は私たち人間の罪は私たちがどんなに赦しを乞うたとしても赦されることのない罪なのです。誰に対してかというと、神様に対してです。私たちはどうしても対象を見える人間だけを考えやすいのですが、見えない神様に対するものだということを知る必要があります。
 子どもにこの見えない神に対する罪を教えるのが大事なのですが、なかなか難しいじゃないですか。
 でも、この見えない神を恐れ、愛することを教え、罪を素直に神にも人にも謝れる人に育てるのが親の責任、大人の責任なのです。子どもの将来を私たちは作れませんが、土台造りは協力させてもらっているのです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3:16)

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