子育て通信 #103

「希望」「感謝」「祈り」

抱負を語る力「感謝」

 一年の初めに多くの方は抱負を語るようです。教会でも「皆さんは今年どんなことを期待しますか? どんなことをしたいですか?」など、お聞きする時を持つのですが、なかなかすばらしい抱負が飛び出すものです。

 教会ではその少し前、つまり昨年の最後の日曜礼拝で何人もの方に短い時間ですが、一年の感謝を語っていただきます。これがまたとてもいいのです。色々なことがあって、結構大変だったであろうに、次々感謝の言葉が飛び出してくるのです。

 中にはその話されている内容が、一般的にはとても「感謝」とは言えないような内容なのに、「神様に感謝申し上げます」と言われるのを聞くのです。この方がそういう嵐の中でどれほど揉まれ、苦しまれただろうかと察するのですが、まだその最中(さなか)にありながら、それを信仰をもって乗り越えられたのだなと思うと、聞く側も嬉しくなるのです。

 そうしたお話を聞く度に思うのですが、「何と自分は感謝の少ない人間だろう!」と。子育ての会では、子どもが心から「ありがとう」の言葉を発するためには、親がその手本として、心から「ありがとう」と言う姿を見せることに尽きる、と言ってきました。そう言いながら、私は何と感謝の少ない人間かと反省するのです。

感謝から始まる「希望」

 感謝をもって一年を終えると、期待と希望に満ちて新しい年を迎えることができます。「希望」は人を生かします。反対に「絶望」は人を死なせます。「失望」しても「絶望」しないで欲しいと思うことがよくあります。

 思うようにいかないこと、期待していたことが大きく外れること、入れると思っていた学校に入れなかったこと、愛していた人にふられたこと、うまくいくはずの仕事で失敗したこと、信頼していた人に裏切られたこと、数え上げたらキリがありません。「失望」の言葉が浮かんできます。しかし決して「絶望」してはいけないと思うのです。

失望してはならない

 聖書にこんな言葉があります。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
(ローマ人への手紙5章5節)
 また、こんな話があります。

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
(ルカの福音書18章1節)
 に始まって、イエス様が弟子たちに祈り続けることの大切さを語られました。

 ちょっと祈って聞かれないから、「神なんてやっぱりいないんだ」とか「神様は私を見捨てている」とか思う前に、諦めないでもっともっと祈ってごらん、必ず神様は最善をなさるから、という内容です。

諦めない

 こんな話をご存知ですか?

 牛乳の入ったビンの中に、2匹のカエルが落ちてしまいました。簡単に出ることができず、1匹は諦めてしまい、溺れて死んでしまいました。

ところがもう1匹は諦めず必死でもがき続けました。すると牛乳がかき混ぜられて、次第にバターになっていき、そのバターを足場にピョンと飛び出て助かりました。

 諦めたら何も起こらない事態でも、諦めないで何かを継続することで事態は変化することがあるのです。牛乳のままでは助からないけれど、バターに変化すると助かるというようなことが起こり得るのです。まさに「継続は力なり」です。

 「祈っても、祈っても、良くならない」ということを聞くことがあります。私も同じように思ったことが何度もあります。しかし、本当にそうなのでしょうか? まだバターになっていないだけではないでしょうか?

絶望の姿

 また、こんな話があります。

 蚤(ノミ)という虫はとても小さいではありませんか。しかしこの小さな蚤が体長の60倍の高さを飛び跳ねることが出来るというのです。5ミリのノミなら30センチを跳べるのです。ですから、このノミを高さ10センチのコップに入れると簡単に飛び出てしまいます。

 ところが、コップにハガキ一枚を置いて蓋をしてしまうと飛び出すことは出来ません。しばらく蚤はハガキにぶつかり続け、遂には10センチまでしか跳ねなくなくるのです。

 蓋を取り、自由の身にしてあげても、蚤は飛び出しません。10センチまでしか跳ねないのです。30センチも飛び跳ねる能力を持っているのに、10センチしか跳ねなくなってしまい、外に逃げ出せず、コップの中で死んでしまうそうです。

 こういう話を聞くと、教育の大切さを思い知らされますね。どこの親だって子どもの持っている能力を最大限引き出して上げたいと思っているのですが、その能力自体がいまいちわからない、何がわが子の幸せになるのかがわからない、といったことが多々あって親を苦しめるのです。

祈り続ける母

 私は子育ての会で、クリスチャンで無いお母さん方にも「子どものために祈ってください」と訴えてきました。難しい祈りとか、かっこいい祈りとか必要では無いのです。私たちをお造りになった、天の父なる神様に「感謝」を申し上げて、「願い」をすればいいのです。「今日もこの子が元気で過ごせますように」「学校で楽しく過ごせますように」「いじめをしない、いじめに荷担しない、いじめに遭わないように」というようなことでよいのです。

 偉大な神学者となったアウグスティヌスという人がいます。4世紀の人ですから、本当に昔々のことです。彼の母親はクリスチャンでした。父親はクリスチャンでは無かったようです(死の間際にクリスチャンになったらしいです)。

 アウグスティヌスの若い時、心と生活は荒れ始め、ある女性と同棲を始めたそうです。今ではよく聞く話になってしまった「同棲」ですが、今でも決して良くないこの同棲を4世紀という時代に15年間もしてしまい、子どもも生まれました。「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」とその著書「告白」で悔い改めの言葉を述べています。そして、マニ教という宗教を信奉したものの、幻滅を感じて哲学へをはまり込んでいったそうです。

 そんな彼のために一人の女性が祈り続けたのです。母モニカです。人々の目にはアウグスティヌスがまっとうに生きる人に変わるとは思えなかったかも知れませんが、モニカは祈り続けたのです。その結果、彼は聖書を開いたのです。人生に絶望感をもっていた彼が、近所の子どもが「取って読め」と言うのを聞いて、ハッとして近くにあった聖書を読んだのです。彼は、「希望」を持つことができました。

 そして、息子と共に洗礼を受け、さらに聖書の教えを学び続け、人を教えるようになっていき、神学者にまでなったのです。

 その彼の背景には母モニカの祈りがあったのです。彼のために母モニカはひたすら祈り続けたのです。

感謝の心で祈りませんか

 色々なことが起こるのが人生かも知れません。

 親は自分のことより子どもの幸せを考えます。それだけに子どもが自分の思うようにしないと「怒り」が湧き起こり、「失望」「絶望」となることもあります。

 怒りの気持ちで祈ると、自分の思うように神様が働くようにと「愛」の無い祈りが出てきます。

 感謝をすると祈りも美しいです。しかも、自分の心から怒りが消えていきます。

 最後にもう一カ所、聖書を。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
(テサロニケ人への手紙 第一 5章16-18節)

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