子育て通信 #111

自分を振り返ってみれば 6

不思議な声

 前回、宗教的な言い方でしたが、神様からの召命を受けて牧師になったと言いました。そこのところをその時のまま、もう少し詳しくお話しします。

 最高潮で楽しい中学校教師生活を送っていた私は、27歳の夏の終わり頃に、今までにない感覚がやってきました。

 私は毎朝5時半頃に起きて、聖書を読んで、朝食をとって、6時半頃に家を出て、学校へと歩いて(あるいは自転車で)通勤していました。この学校までの4km程の道は、私の祈りの道でした。

 いつものように聖書を読んでいたら「今いるところから出なさい」というような耳に聞こえる声ではなく、かといって幻聴でもなく、自分の思いでも無い、小さな声のようなものを聞いたのです。(こういう話ですから、宗教的ということになってしまうのですが)

 「何だろう?」と思いつつも、神様からの語りかけかも知れないと思い、考えてみましたが、「今いるところから出る」ということは何のことか分かりませんでした。学校までの道も祈りながら考えてみたりしましたが、思いつくものはありません。

 ところが、その小さな語りかけのようなものが続きました。さすがに1ヶ月考えると色々と考えるようになっていました。

 前回書きましたように、中学校教師の限界を感じ、もっと長期的に子ども達と関わりたいという思いは湧いていましたから。かといって当時は小中一貫校も無く、私学の幼稚園から大学までの学校に私が採用されるはずも無く、私は私塾を開くのかとも思いましたが、よくよく考えると、もっと関わりが少なくなることもわかりました。

新設校だ!

 「今いるところから出る」ということを考えていると、新設校ができるという情報が入ってきました。「きっとその新設校に行くのだ」とも思いました。それは実はかなり具体的に動いたのです。新設校に異動しないかという誘いがあったからです。私はてっきり「これだ」と思いました。それは、新設校ですから一から生徒と造っていくことができるのです。考えただけでも楽しかったです。しかも、私の勤めていた学校ともう一つの学校が分離して生み出す学校ですから、私の教え子達もいるのです。

 私は「今いるところから出なさい」という小さき声は、この新設校への神様の導きだと受け止め、ホッとしました。

あり得ない!

 ところが、ある朝、聖書を読んで祈ろうとすると、小さな声では無くはっきり「伝道者」という声が聞こえたというか、頭の中を風の如く通り過ぎたのです。「えっ!」「まさか!」「あり得ない」などと思いながらも心は動揺しました。伝道者・牧師にはなりたくなかったからです。というか、私なんかが牧師になるというのは考えたこともありませんでしたし、あり得ないと思っていました。

 ところがその響きはかなり明確でした。私は自分の人生を神様の思われるように生きたいと思っていましたので、その「伝道者」ということを祈ってみることにしました。今までの経験から、自分の思いを神様のお声と勘違いしてしまったことがありましたが、毎日祈っていると勘違いした時には、それは徐々に間違いだったことに気付いたのです。正しい時は、その思いはより明確になり、実現したのです。

 今回も祈ることにしました。「私が牧師・伝道者になる事が神様の御計画なら、私に明確に教えてください」と。昔から祈りの先輩達は祈りの中で大事な事を知ってきたのです。私もそれに倣ったわけです。

 私は祈ればきっと私の勘違いであることに気付くだろうと思っていたのです。すると、ある朝明確に聖書の言葉で「伝道者(牧師)になるべきだ」とわかりました。驚きでした。

間違い無い!

 しかし、心の動揺は大きく、学校へ行く道も喜べず、教師を辞めることの辛さばかりが出てきました。その時、またしても耳にでは無い心に響く声で「天を見なさい」と聞こえたのです。

 私はうつむいていたので、空を見上げました。とてもきれいな青空でした。そして、これこそ幻でしょう!その青空に私を励ます、大漁旗のようなものが翻っているのが見えました。その瞬間「間違い無い!牧師になればいいんだ!!」と受け入れられたのです。そこからは喜びが湧いてきました。

 皆さんにはあまりに宗教的な話で変に思われたかも知れません。が、人生には不思議としか思えないこともあるものです。私がこれらのことをことさら不思議に感じなかったのは、奇跡的な出来事を体験していたからかも知れません。

死ななかった体験

 その一つに、3年生を担任していた時、家庭訪問を終えて自転車で山の上から降っていった時です。かなりのスピードが出ていました。左折する車を抜こうとペダルを踏み込んだ瞬間、足はペダルから外れ、バランスを一気に崩しました。前にはバス、後ろからは車、ここで転べば確実に死ぬという場面でした。バランスを崩した自転車はバスの方にひっくり返ろうとしていました。「走馬燈のように」という言葉を私が体験したのはこの時です。わずか1秒以下の短い時間に私の頭の中では、「あっ、死んだ!」「両親になんの恩返しもしてない」「生徒達の高校受験の書類などこれからなのに」「みんなごめんな」等という言葉と、両親の顔、友達の顔、生徒達の顔がパーッとひらめいたのです。

 その次に、気がつくと私は転びかけていた自転車が急に起き上がって左のガードレールの方にサッと走っていることに気がついたのです。バスと後ろの車のクラクションだけがうなっていました。

 ガードレールのそばでたたずみ、「生きてる」「死んで無い」と思った時、ガクガクと震えました。自転車に乗れなくて、しばらく押して歩きました。「神様、ありがとうございます。私は一度死んだも同じ、この身はあなたに献げます」と祈ったのです。(この祈りは、どうやら、二年後に「伝道者」という、神様からの呼びかけに答えなければならないことになったのだと思います)

 それから、あの状態からどうして助かったのか思い出そうとするのですが、ほとんど倒れていた自転車がどうして立ち上がって、左側に行けたのか、なかなかわかりません。あの時、何か不思議な力が働いて自転車が起き上がったのです。更に、ペダルを外れた私の足が地面を蹴っ飛ばして、方向転換して左側に向かったのです。それくらいしか思い出せません。今も私は天使に助けられたと思っています。(すみません、あまりに宗教的ですね)

 こんな経験をしたものですから、私は人生というのが、神様(イエス様)無しにはあり得ないと思っているわけです。そして、それが聖書を通して間違い無いと理解しているのです。

牧師になって

 神様は私の教師時代を楽しいものにしてくださいました。

 牧師になるために東京の駒込にある中央聖書学校(現在の中央聖書神学校)に入学した時から、教育の世界とは離れたと思い込んでいました。

 ところが、神様は牧師になった私に、以前持っていた「もっと長期的に子ども達と関わりたいという思い」を再度湧き起こしてくださいました。牧師になった当初から子どもに関する相談事などがどんどん舞い込んできたのです。そして、「子育ての会」を開いたり、小中学生に勉強を教えたり、遊んだりする時間が与えられました。

 今、私は体も壊し、以前のように子ども達と一緒に走り回って遊ぶということはできなくなってしまいました。また、教える能力も落ちました。

 でも、子ども達が大好きです。一緒にいるだけで嬉しくなります。私の願いは教会にいつも子ども達の笑顔と笑い声が満ちていることです。

 また、「勉強塾みたいなのもしてみたいなあ」とか、「子ども達の演劇クラブをつくりたいなあ」「バンドをつくりたいなあ」「子どもゴスペルやりたいなあ」なんていう気持ちは湧き起こっています。何かさせていただけるのかも知れませんね。

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