子育て通信 #116

親切な人(生徒)

懐かしい生徒

 いよいよ、卒園・卒業・進級の時期ですね。こういう時期になると教師時代の色々なことが思い出されます。

 中学3年生は高校受験でピリピリしていました。大阪の府立高校は3月中旬に入試がありましたので、卒業式の練習と共に落ち着きの無い日々を過ごしたものです。

 この時期に落ち着いているのは、私学専願で合格した生徒達です。2月の入試を終え、合格が決まると中学校最後の生活を楽しむかのように明るく元気でした。

 ところが、私のクラスの私学専願の男子が不合格となりました。急いで2次試験のある学校を探しましたが、そこもダメで、3次試験を探すことになりました。

 公立の試験も終わり、卒業式も終わり、彼だけがまだ合格をもらっていませんでした。彼は大変明るい生徒で、クラスでも人気がありました。格別スポーツができるとかではないのですが、彼は親切な生徒で人気があったのです。

高校探し

 私も進路指導の先生も高校探しで大変でした。私は彼のために祈りました(こういう時、クリスチャンはいいなあと改めて思えました)。そんな時、まだ比較的新しい高校で、定員に満たない高校が見つかったのです。とは言え、この時期の受験となるとさすがに受け入れ人数は2名という少ない数です。競争率でいうと、20倍を超えます。どういう学校かよくわからないまま、ご両親とも話をし、この高校を受験することになりました。

 彼はみごと合格しました。卒業したクラスメイト達がみんな集まって、彼の合格をお祝いしてくれました。3月の終わりになってやっとみんなの春が来ました。

 私もホッとしたのですが、同時にやや心配が出てきました。それは、彼が不合格だった高校は彼が関心のあった電気関係の高校なのです。ところが、全く違う普通科に決まったのです。途中で辞めないで欲しいと願い、彼にもしっかり頑張るように言いました。

好感を持たれた

 後日、その高校の受験担当の先生がお出でになり、校長と進路指導の先生にお話になりました。「とても良い生徒を送ってくださってありがとうございました」ということなのです。

 彼は入試の面接でもしっかりと受け答えし、その真面目な態度に試験官全員が好感を持ったというのです。しかも授業が始まるととても熱心に勉強し、成績もとても良いということなのです。さらに、その高校の先生は、こんな生徒がいる中学校とは良い関係を持ちたいので、来年も多くの生徒を送って欲しいと言われたのです。この高校はその後数年のうちに大学進学率や就職率が良いということでどんどん評判が良くなった高校です。

 希望校に入れなかったことで卑屈にならず、入った高校で精一杯頑張り、あの明るさと親切心を失わなかったのです。親御さんはどのように育てられたのだろうと興味が湧きました。

 後日談ですが、彼は高校卒業後、すぐに就職しました。大手の企業に一発で決まったそうです。

変わらない笑顔

 そうして少しした時、彼が入院したという話を聞いて、私は急いで見舞いに行きました。肝臓の病気ではありましたが、幸い大きな問題は無く、ホッとしました。ベッドの上の彼は大人っぽくなっていましたが、中学生の時の笑顔そのままでした。「とても良い会社に勤めることができました」と感謝に溢れている彼の言葉を聞いて、彼はまるで聖書を生きているなあと思いました(クリスチャンではないのですが)。

 聖書に、
「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ教会への手紙第一 5:15-18)
と書いてあります。ここが浮かんできたのです。

愛は親切

 彼は学校の成績が良いというわけではありませんでしたが、受験した高校の先生に気に入られ、就職した会社にも気に入られました。それはわかる気がします。彼がクラスにいると明るいのです。かといって、リーダー的存在というほどでもないのです。一言で言うと「親切」なのです。

 結婚式でよく読まれる聖書の箇所の一節に
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(コリント教会への手紙第一 13:4)
とありまして、まさに親切心は愛から発するのです。

 それはまた、神様が人々の心に大きく実を結んで欲しいと願っておられるものです。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ教会への手紙 5:22-23)
とあります。この大事な九つの中に「親切」が入っています。この九つは私たち人間が一生かけて造り上げていくものでもありますが、これらのものを持ち合わせている人に出会えばきっと好感を持つと思います。

 彼がそこまでは持ち合わせていなかったとしても「親切」な彼は多くの人から好感を持たれました。

一人で掃除

 彼のもう一つの忘れられない出来事を書いておきます。

 その中学3年生の我がクラスでは掃除当番を無くしました。自分たちのクラスだという意識を持ってもらいたくて、当番制では無く、自主的な掃除にしました。しかし、掃除をしないというのは禁止で、一週間に一度は掃除をしようということでした。「もし、誰も掃除をしない日があったら、その日から卒業まで、全員で掃除をしてもらう」と決めました。これは私が勝手に決めたのではなく、生徒と話し合って決めたことでした。

 ある日のこと、放課後に教室に行ってみると、彼一人で床ふきをしていました(掃除というのはほうきで掃くだけでは無く、雑巾で床を拭くこともするのです)。驚いた私は、「一人か?」と聞くと、彼は「はい」と答え、色々聞いていくうちに、彼も部活に行きたかったのですが、誰も掃除をせずに帰ってしまったことに気付いて、これでは、みんなが毎日掃除をする羽目になると思って、一人で掃除をしていたのです。途中から私も一緒に掃除をしましたが、二人で拭き掃除までするのはなかなか大変でした。

助けられた!

 翌日、私は「昨日掃除をした人は手を挙げて」と言いました。みんなドキッとしたみたいです。「もしかして誰も掃除をしなかったのではないか?」とみんなが思ったようです。

 誰も手を挙げません。私は、「昨日は一人できれいに掃除をしてくれた人がいます。みんな彼に助けられたね」と。すると、「誰ですか? 掃除をしてくれたのは」「オレは何となく掃除をしそうな人がいないのに気付いたけど、どうしても部活に行きたくて、行ってしまいました。ゴメン!」と。すると、次々、男子も女子も「ゴメン」「ありがとう」を連発しました。

掃除します宣言

 そして、何とその日、班会議が開かれ、各班は掃除について話し合いました。次々、掃除します宣言が出てきました。ある班は「班のまとまりのために一緒に掃除をしよう」と決めました。その日から卒業式まで毎日、たくさんの生徒が掃除をするようになりました。そうすると掃除は早く終わります。しかも、床ふきも丁寧になり、卒業時には床がどのクラスよりもピカピカになりました。

 しかも、掃除後に、進路のことや色々な話をするようにもなり、私も時々その中に入って一緒に話し合ったりできました。部活を引退すると放課後に時間ができます。しかも、掃除が早く終わります。話し合いが楽しくなってくると、むしろ掃除の時間を楽しみにし、終わると楽しそうに話し合っています。とても良い雰囲気でした。

 彼のクラスメイトを思う心、親切心が、クラスを変えたのです。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ教会への手紙4:32)
 彼のように明るく、親切な生徒はそうはいません。そのご両親の子育てがどんなものだったのか今さらながらに知りたくなります。

 教師であった私が教室に行くのが楽しみになるのは彼のような生徒がいるからだったかも知れません。

 しかし、気になる生徒、大変だった生徒、病気がちで1年の半分近くを欠席してしまう生徒、障害を持って苦労した生徒、親の離婚で辛い思いをした生徒、親が亡くなってしまった生徒、教室には色々な生徒がいました。どの生徒もみんな懸命に生きていたのだと思います。

 そんな彼らに、私は果たして「親切」にしてあげられたのか???私の方が生徒達から教えられたと思います。生徒達が私の人生の先生でした。

 そして、イエス様は私の恩師です。

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