子育て通信 #121

コミュニケーション・祈り

服部先生の言葉

 スクラップブックならぬ、スクラップ引き出しを整理した時に古い記事ですが、大事な1枚を見つけました。それを引用させていただきます。

学校保健266号別刷 保護者・地域との連携ページ 服部栄養専門学校校長 医学博士  服部幸應氏
 いま、考えるべき 子どもの 「生きていく力」
 【食卓こそ躾の場】
 本来、躾は家庭教育の中で行われるのが望ましく、またそれが普通でした。しかし残念なことに、核家族化、受験戦争、共働きの増加につれ、子どもたちの食事状況は貧困の一途をたどっています。ジャンクフードや添加物の多い食品の導入など、質の低下も問題ですが、「こしょく」(孤食、個食、固食、小食、粉食、濃食)が増えたことは子どもたちの成長に大きな影響を与えたと思います。
 日本人が代々連綿と伝えてきた食文化はここ数十年ですっかり切れ切れになってしまいました。今や食卓で親子のコミュニケーションをとり、躾を行い、文化を伝えるといういい習慣が行われている家庭は少数派です。こうした事が子どもの育ち方に大きな影響を与えているのです。私は「食育基本法は食卓基本法だ」と思っているくらい、食卓で家庭が子どもに及ぼす影響は大きいと思っています。また、食の場で親が子どもを教育することはあらゆる躾の場に通じていると思います。
 子どもの成長には大きく分けて2段階の重要な時期があります。0歳から3歳までのスキンシップが大事な時期と、3歳から8歳までの食卓での躾が身につく時期です。この二つの時期に親として伝えるべき事は全て子に伝えていかなければなりません。善し悪しを判断する能力を身につけさせる一番大切な時期だからです。この時期を越えると、躾けるのに十倍以上の手間がかかってきます。なぜかというと、ヒトの脳の発達はだいたい10歳前後で完成し、8歳から10歳までが好奇心のピークになり、この時期に差し掛かる頃には、人の言うことを聞きにくくなるからです。3歳から8歳までの食事を1日3回欠かさずとれば、1年で1095回になります。40年ほど前まではそのうち700~800回ほど家族と一緒に食べる機会を持っていましたが、今は270回程度にまで落ち込んでいます。また、テレビを観ながら食事をすると、味もわからず、さらに親子の会話も失われるのです。躾けに最適な場をみすみす逃しているようなものです。
 食育に限らず、子どもをきちんと躾ける大人であってほしいと思います。現代人には「小言」が足りません。、食事のマナーにしても、食べ物に対する考え方にしても、食卓で毎日繰り返される小言が大事なのです。小言を言われつけていれば、人の言葉に耳を傾けるようになりますし、耐性ができて少しのことではムカつかない子になるでしょう。
 子どもを一番大切に思っている親こそが、躾の場を上手く設けてほしいと思います。
 以上が、ちょっと古い資料でしたが、そのポイントは変わっていません。今は親子揃っての食事の回数はもっと減っているのかも知れません。食事というのはとても大事なコミュニケーションです。
 食事の時に「静かに食べなさい」と指導される家庭もあれば、実に賑やかに色々なことをしゃべりなながら食べる家庭もあります。私はどちらにしても一緒に食べるということが大事なコミュニケーションだと思っています。

抱きしめ

 色々な子育ての本、教育の本を読んでいるとだいたい共通したものをみつけられるものです。その一つに親子のコミュニケーションがあります。
 私はずっと子育ての会などで、幼い子どもに対して「抱きしめる」「話を聴く」ということをお伝えしてきました。これはコミュニケーションの基本だと思います。
 「抱きしめる」「スキンシップ」というのは幼子にとって親の愛をしっかりと感じる大事なコミュニケーションです。いつしか子どもを抱きしめることができなくなる時が来るので、それまでは抱きしめられることを喜んだらよいと思います。
 文化によっては、大人になってもハグをし合う文化がありますので、抱きしめられなくなるという心配の無い家庭、国もあると思いますが、子どもも大きくなってくると親に抱きしめられるのを嫌がることが多いものです。

逃げ切らない生徒

 尾木直樹先生の本の中に、中学生が悪さをして教師から「待て!」と言われる中、逃げていくのですが、たいてい校門のところで捕まえられるということが書いてありました。生徒が真剣に逃げれば決して尾木先生には捕まることは無いのですが、校門で捕まるということは「捕まえて欲しい」ということなのだと書かれていました。
 そして、美人の先生を呼んで一緒に話をしてもらい、その美人の先生が生徒の手を握るとそのワルの生徒がニコッとするそうです。「あなた、私に手を握って欲しかったの」と。

 ワルの中学生でもまだまだ子どもで、信頼している先生には、捕まえて欲しい、手を握って欲しい、というようにコミュニケーションを求めているわけです。その伝え方が思春期だから、幼子のようにストレートでは無いのですが。

 私もこの文章を読んでいて、35年程前の教師時代を思い出しました。髪の毛を染めてきて、「あー、何てことをしているんだ」とガックリきながら、「どうして染めるんだ?」とか色々話を聴いているうちに「黒にしてくる」と、すごくおとなしい声で言ってくれるのです。そして、次の日、髪の毛は黒になっているのです。かまって欲しかったのでしょうか?

交換ノート

 また尾木先生の本には、生徒との交換ノートの事が書かれていました。私が驚いたのは、生徒が4ページ書いてくれば、先生も4ページ返事を書いたそうです。ある時、問題のある生徒が延々と14ページ書いてきたそうです。その内容はなかなか大変だけれども心が表されていたそうです。尾木先生も14ページ書いたそうです。書き終わると午前4時だったそうで、最後に「午前4時」と書いておいたそうです。それを読んだ生徒は14ページというページ数にも驚きましたが、自分のために4時まで書いてくれた事に感動したらしく、それからは尾木先生に素直に話してきてくれたそうです。

 私も交換ノートのようなものをしましたが、数行しか返事を書いていませんでした。「やはり尾木先生ってすごい先生なんだ」と感動。私もこんな教師だったら良かったんだけど、と反省です。
 最近は家庭でも子どもと交換ノートをしされているところがたくさんあるようです。
 思春期の子どもは荒れたとしても決してコミュニケーションを嫌っているわけでは無く、むしろ求めているのです。

イエス様のスキンシップ

 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
(マルコ10:16)
 これはイエス様が子どもたちを祝福されている場面ですが、イエス様は子どもたちを抱かれました。そして、頭に手を置いて祝福の祈りをされたのです。 今の時代でも、祈りの時、親が子どもに手を置いて祈ります。
 子どもがお腹が痛いと言えば、お腹に手を当てたり、さすったりします。「手当て」とも言われます。その時、子どもたちはどれほど安心するでしょうか。その安心の気持ちでちょっとした痛みなどは治ってしまうことも多々あります。

祈りの手

 私もたくさんの子どもたちに手を置いて祈ってきました。今年も11月の七五三祝福式ではそうします。
 祈りということ自体、とても大事なのですが、手を置くことで子どもたちは安心するのです。あるいは抱きしめて祈ることもあります。子どもたちは見えない神様に、このように抱きしめられて守られていると実感するようです。
 イエス様が子どもたちを抱き、手を置いて祈られたので、私たちももっと子どもたちを抱きしめて、手を置いて祝福を祈りませんか。

お父さんの祈りの手

 お父さんの手に関してはこんな聖書の言葉があります。
 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。
(テモテへの手紙第一2:8)
 と、ひっぱたいたり、握り拳ではなく、家族や人々のために神様に祈りの手を上げるということです。お父さんの手でしっかり握ってもらってお出かけしたことを覚えている子どもたちは多いのではないでしょうか。お父さんの手も守りの手、祈りの手なのです。

 そして、祈りというのは神様とのコミュニケーションなのです。私たちが子どもたちとのコミュニケーションを大事にするように、神様も私たちとのコミュニケーションをとても大切に思ってくださっています。神に祈り、子どもたちのために祈る親でありたいものです。

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