子育て通信 #129

車酔いから解放された

金曜チャペル

 新中野キリスト教会では、月に2回ほどではあるのですが、「金曜チャペル(15:00-15:30)」というのをしています。もともとは日曜日の礼拝に出席できない方のためにと、金曜日にミニ礼拝会を行ったのがきっかけです。
 ところが最近、その名称のままで形が少し変わってきました。来られた方の状況に応じて、聖書のお話、絵本、紙芝居を読む、質問に答える等々になってきたのです。

ひどい車酔いが・・

 先日、この金曜チャペルでお話をしていくうちに、私が子どもの時、ひどい車酔いをしていたことを話しました。
 私は小学校2年生の時、車に酔って吐いてしまいました。この時から車に乗るといつも酔って吐いていました。そして、車に乗るのが恐くてたまらなくなりました。

 5年生の時のことです。名古屋にある伯父の知り合いの家に行くことになりました。新幹線に乗れるというので嬉くて仕方がありませんでした。ところが名古屋駅に着くと、なんとそこからはタクシーに乗るというのです。「えっ!」と思いましたが、今さら引き返すわけにもいかず、運転手さんの隣に乗らせていただきました。それが大きな変化の始まりでした。
 いつもは車に乗るとき、酔い止めを飲んでいたのです(飲んでも酔っていたのです)が、この日はタクシーに乗るなんて思ってもいなくて酔い止めの薬を持っていませんでした。だから少しでも楽な場所と思って助手席に座らせていただいたのです。タクシーが走り出してほんの少しで私は酔い始めました。

 信号で止まった時、運転手さんはしんどそうな私に気がついて、「ぼく、しんどいかい?」と。私はうなずくのがやっとでした。「車酔いしない、良い方法を教えてあげよう」とその運転手さんはとても優しく教えてくださいました。「自分の好きな方に首を曲げて楽にしててごらん。酔わないよ。もし酔ってもそうしていると吐かないよ」と。
 私は言われたとおり、首を右に曲げてみたり、左に曲げてみたりしてみました。助手席だと左に首を曲げると窓に頭を当てることができて楽だと思えたので、左に首を曲げて、窓ガラスに頭を当てていました。
 遂に親戚の家に着きました。少し気分は悪かったのですが、吐くことはなかったのです。「やった!」とすごく嬉しい気持ちになりました。
 その時から車酔いすることはあっても吐くことはまず無くなりました。あの時のタクシーの運転手さんのお陰です。

暗示

 大人になってから、ふとその時の事を思い起こしました。あのタクシーの運転手さんが教えてくれた方法は本当に根拠があるのかどうかわかりません。「暗示」だったのだと思うのです。私はその暗示によって酔わなくなったのなら、その暗示は私にとって良いものだと言えます。
 一人の人の言葉が人間にこれほど大きな影響を与えるとしたら、言葉が子どもに与える影響は何と大きいだろうと、言葉の力を感じるのです。

 「暗示」という言葉は決して良い感じはしないのですが、催眠術で車酔いを無くしてもらった友人もいます。これも私がタクシーの運転手さんから受けた暗示と同じようなものかも知れません。

マインドコントロール

 暗示というと、私の頭にに浮かんでくるのは「洗脳」「マインドコントロール」という言葉です。最近、これらの言葉も少し影を潜めましたが、カルト宗教の問題が起こったときに一気に広まった言葉だと思います。そういう本もたくさん出回りました。

 ある宗教団体の言う特定の教えを叩き込まれることで、他の考え方ができなくなり、教祖の言いなりになってしまって、犯罪を犯してきた宗教団体がいくつも出てきた時期がありました。
 考えが一方的にコントロールされてしまって、間違ったことをしていてもそれが間違っているとわからないばかりか、犯罪行為をしていてもそれが「正しい」と思い込んでいるのです。
 そのために宗教全般にマインドコントロールされていると思い込んでいる人が増えました。

詰め込み教育の問題

 ある教育学者は、そういう現象を、日本の教育のあり方そのものの問題だ、と言いました。それは日本の詰め込み教育で、教えられたことをじっくり考えるよりも、教えられたとおり素早く解答用紙に書き込むことが良しとされる教育だからだと言います。
 まさに上の人から言われたことを判断することよりもそれが正しいと信じ込み、それをその通りに行わないと罰則があるように恐れ、犯罪行為にも及ぶというのです。

 恐怖心でつないでいくようなものは宗教とは言えないと思うのですが、正しい宗教教育や神教育がなされてこなかった日本ならではの社会現象なのでしょうか?

良い言葉を、愛をもって

 前から,私は頭に入っている言葉でしか人間は考えることができないし、その言葉で行動するということを言ってきました。マインドコントロールも「言葉」によってなされるのです。どんな言葉を蓄えるかは人生を大きく変えるわけです。

 あのタクシーの運転手さんに感謝しているのですが、運転手さんの顔も声も思い出せませんが、あのアドバイスをくださった時、明るく優しく語ってくださったことだけは覚えているのです。私がしんどそうにしているのを本当に心配し、「大丈夫だよ」というような感じの口調だったのです。「言葉」はただ文字では無く、その人の心が出て来ます。同じ事を言ったとしてもその人の口調や雰囲気で受け止め方も変わってくると思います。

心を開く療法

 子ども達が親や教師の言葉でコントロールされて、まさに催眠術にかかったかのように「できなくなってしまう」ことがあります。それを解かない限りその子は「できない」ままです。
 時にそれがカウンセリングの仕事となり、「○○療法」と呼ばれるものがあるわけです。認知行動療法、演劇療法、音楽療法、絵画療法、箱庭療法、プレイセラピー等々色々あります。本来その子には良いものがあるのに、何かが押さえつけてしまってその良いものが出て来ないことがあります。これらの療法は、それが出やすいように心の扉を開かせてあげる助けをするものです。

イエス様に心を開く

 私たちの心には、入れて良いものと入れてはいけないものがあります。そして、入れるべきものもたくさんありますが、その選択が難しい時代になっているように思います。
 また、心の扉を開けて迎え入れるべき方がいます。それがイエス様です。
 赤ちゃんの心の扉はお母さん、お父さんに開かれ、だんだん自分のことを愛してくれる他の人にも開かれます。しかし、赤ちゃんは最初からイエス様(神様)には開いているようです。それがどこからか徐々に閉まっていくみたいです。
 イエス様を心に迎え入れるべきなのですが、日本ではそのことがキリスト教会以外ではまず語られませんから、迎え入れてはいけないものを迎え入れてしまうことが多々あります。そのためにカルトにはまり込んで人生を棒に振ってしまったり、犯罪行為に走ってしまったりします。

 また、何に対しても心を閉ざすとこれまた人間関係も壊れ、人生が狂います。色々な療法は正しく心の扉を開かせるためであるのですが、時としてその療法を行う人に問題があって、こじれるケースも聞いています。まさに「言葉」と「人」というのは切り離せない大事なものです。

 優しく愛をもって声をかけ、心の扉をこじ開けることもせず、私たちが自分から心を開くことを待っておられるのがイエス様です。イエス様にこそ心の扉を開くべきなのです。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」
(聖書 黙示録3:20)

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