子育て通信 #131

37年前を思い出して

還暦祝い

 6月16日、私はとても楽しい時間をいただきました。一昨年前でしたか、「先生が還暦を迎えたら、同窓会をしよう」と言ってくれる教え子がいたのです。
 私がめでたく教師になって、最初に担任したクラス、高槻第九中学校の1年4組の生徒です。
 私は、中学校のそれも1年生のクラスの同窓会なんて、集まらないのではないかと思っていました。しかし、言い出してくれたMさんは、私の体調を気遣い、私が高槻に出張している時の昼食からの計画を立ててくれました。
 平日のお昼ですから、なかなか集まらないとはわかっていましたが、2-3人でも来てくれたら楽しいかなと思い、よろしくお願いしました。
 ところが、9名(男子3名、女子6名)も来てくれました。もと1年4組と知っているので、みんなを思い出せましたが、もし、普通に町で出会ったなら、思い出せなかったかも知れません。

大きな発見

 今回、この子育て通信でその同窓会のことを書くことにしたのは、わたしにとって大きな発見が幾つもあったからです。
 まず、私が驚いたのは、来てくれたメンバーではありますが、みんなが「あの時が一番楽しかった」と口々に言ってくれたことでした。
 楽しいクラスにしたかったのは事実ですし、私も努力したつもりです。しかし、自信があったわけではありません。思春期に入ったばかりの中学1年生、慣れた小学校から、急に制服を着て登校、給食からお弁当に替わったり、3つの小学校から集まり、新たに人間関係をつくるなど、彼らにとっては大変なストレスだったと思います。私も自分のクラスを初めて持つのですから、緊張感でいっぱいです。が、夢もいっぱいでした。

楽しかった

 最初に生徒達を見たとき、私は「かわいい!」と思いました。「小さい」という意味ではありません。23歳の私には弟や妹といった方が良い年齢かも知れませんが、私はなったこともない、親のような気持になりました。「この子たちと一緒に楽しい中学校生活を送りたい」と思ったのです。
 今回こうして同窓会を開いてもらって、彼らから「楽しかった」という言葉を聞くと「あー、良かった」と初めて胸をなで下ろすことができました。
 私はこのクラスが楽しかったのですが、生徒達は楽しかったのか、正直自信はありませんでした。不安いっぱいの私を生徒達が助けてくれたという感じです。

 同窓会で彼らが次々に思い出話をしてくれるのですが、一人では思い出すこともできなかったことが次々思い出されて、37年前を懐かしんだのです。朝のホームルームの時間に毎朝歌ったこと、お楽しみ会をしたこと、球技大会や駅伝大会に燃えたこと。難しいクラスメイトのことで話し合ったこと、今だから言えることもたくさんありました。

変わっていない

 私が発見した幾つものことですが、その一つは、かれらが中学生の時とそんなに変わっていないということです。もちろん、37年という年月は彼らをおじさん、おばさんにしています。ところが、私には中学生の彼らがそのまま見える感じでした。
 以前、道で会った教え子がお化粧のためか、本人とわかるまでに時間がかかったことがありました。また、悪ぶっていた生徒が真面目な社会人になっていて、「変わった」と思ったことは今までにも当然あったのです。
 今回、この9名も立派になったし、その話の中身は完全に大人なのですが、話をしていると、中学生の時と同じような話し方なのに気づいたのです。彼らの方は私のことを「あの時は若くて元気な先生だったけど、老いぼれたなあ」と思って時間を過ごしていたかも知れません。

 このことから私は、中学生は人間として確立して来る時期だと思ったのです。幼児期、小学生時代と違い、中学生の彼らは身長も伸びてはいるものの、大人になった現在とさほど変わらないと。それは、まるであの1年4組に戻って話をしているかのような気分になったからです。幼稚な話をしているのでは無く、大人としての話をしているのですが、基本的に人格としては中学生の時にかなり確立していることを物語っていると思います。

大人の言葉の重み

 それと、驚いたのは、私の言葉をすごく大事にしていてくれたことです。中学生の、あの反抗期の時期の生徒が教師の言葉を単に記憶しているとかではなく、大事にしていてくれたのです。ドキッとしました。私はどれほど軽はずみな言葉を発してきたかも知れないのに・・・。
 しかし、感謝なことに中学生というのはそうした教師側、大人の言葉に聞き流して良いことと、受け止めるべき事を聞き分けてくれていたのです。この辺りが幼児期や小学生との大きな違いだと思います。
 とは言え、私は教師の一言、親の一言は大事だなあと感じました。改めて、言葉が人を造っていくことを感じたのです。

 人はなぜ話をするのでしょうか? なぜ話し合うのでしょうか? それによって人格が形成されて行くのです。気に入らないからと言って、話し合いをせず、腕力・暴力に訴えたら、何の解決も無いし、互いに傷つくばかりです。戦争はその最たるものではないでしょうか。戦争を起こさないために色々な方々によって話し合いをしていただいているのです。
 自分と他の人との違いを話をすることで感じ、違うことを認め合い、受け入れ合うことは何とすばらしいことでしょう。ここに人格の成長が見られるのです。

叱り方

 私は教師になり立ての頃、先輩教師から叱り方を教えていただきました。感情にまかせて叱ると後悔するから、「カーッときたら、一呼吸してから叱れ!」と教わったのです。実際、その先生の叱り方は上手でした。時には恐ろしいほど怒鳴ることがありました。しかし、生徒達はその先生について行くのです。やたら怒っているのでは無いことを生徒達は感じとっているからです。
 私も上手い叱り方を覚えようと、教師になり立ての頃から「一呼吸」を練習しました。そして、この「一呼吸」が、今も子育ての会や講演会で皆さんにお勧めしているものなのです。

 今回彼らと話をしていると、彼らが中学生時代にいっぱい叱られたことがわかったのですが、後腐れの無い叱られ方と、何十年経っても覚えている、しかも未だに腹の立つ叱られ方があることを見つけたのです。納得のいかない叱られ方は後腐れがあります。単に体罰に腹が立つというより、やはり、先生の感情的な怒りが爆発しているようなものを嫌っています。しかも、その嫌な思いはその先生自信を嫌ってしまうようになるということでした。
 このことは子育てでもおおいに言えることです。親が子どもを叱る時、子どもが納得のいくものなら親を嫌いにはならないでしょう。しかし、納得のいかない、叱られている意味もわからないということでは、腹が立ち、嫌いになるのです。

自分が楽しい

 私は学級経営がよくわかっていたわけではありません。彼らが「楽しかった」と思ってくれているとすれば、それは彼らが「良いクラスにしよう」「楽しいクラスにしよう」と思ってくれたからだと思います。
 とすれば、これは教育でいう「動機付け」なのです。私は「動機付け」ということを考えて、何かをするほど頭は良くないので、ほとんど自分の感性でしていました。「これは楽しい」「これだとみんな笑える」ということを感じたままやっていました。そして、私自身が楽しくてしようがありませんでした。教室にいるだけで楽しかったし、彼らと話をするだけで楽しかったです。
 林間学校などの宿泊行事や野外活動は最高でした。授業のある日より、文化祭や体育祭の練習の日の方が楽しくてしかたなかったです。
 また、私は陸上部の顧問をしていましたが、そちらも同じです。彼らと一緒に走るのが楽しくて仕方ありませんでした。

今も楽しい

 今、私は牧師です。病気をし、手術もし、心臓病や色々抱えてしまいましたから、子ども達と大暴れする力は無くなりました。でも、子ども達(幼い子もほとんど大人も)と一緒にいたり、話をしたりするのは大好きです。楽しくてしようがありません。
 もちろん聖書の話になると熱がこもります。イエス様のことを正しく知って欲しいし、私たちがこの世にいのちをいただいた大切な意味も知って欲しいと思って必死になりすぎて反省することもあります。
 きっとイエス様も同じように、みんなと話をするのは楽しかったと思うのです。
 
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
マタイ 9:10

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