子育て通信 #136

学び続ける大切さ

今年もよろしく!

 新年、あけましておめでとうございます。
 旧年中はお世話になりました。子育ての会でお会いした方々、桜ヶ丘幼稚園で出会った方々、ご相談に見えた方々、この子育て通信でお出会いした方々、本当に皆さんに支えられて、昨年も過ごしたなあと感謝しています。
 今年もよろしくお願いいたします。

よく続いたものだ

 子育て通信のナンバーをふと見て、「136」と、よく続いたなあと思いました。というのも、私は小学生の時から国語の成績がイマイチで、作文、感想文は苦手中の苦手でした。こんな通信を136まで続ける力なんてありませんでしたから。

読まなかった人が

 高校生活が終わった時にクリスチャンになり、教会に行き始めたのですが、それまで漫画以外、本はほとんど読んだことがなく、文章もほとんど書くということがありませんでした。
 ところが、クリスチャンになり、大学に行き始めると、私は今までと違うことに気がついたのです。まず、あの分厚い「聖書」を読みたくてたまらなくなったのです。朝、通学の電車の中で聖書を読みました。でもよくわからないことがいっぱいでした。もっとよく知りたいと思い、キリスト教書店などを巡り、聖書の解説本や信仰のことを教えてくれる本を次々読み始めました。

 同時に大学で学び始めた「障がい児教育(今だと支援教育でしょうか)」に対して猛烈な感心が湧き、障がい児教育に関する本を読みあさりました。その時から「本」が好きになりました。といっても、限られた分野しか読んでいないので、知識はまったく幅広さが無く、知的な人間にはなれていません。

 私の入った「養護学校教員養成課程」は障がい児教育を学ぶのですが、1年生の時からゼミがあり、毎回のようにレポート提出がありました。これには困りました。書き方がわかりません。高校生の時の理科のレポートを思い出し、書いてみるのですが、他の学生のと比べると格段の差が出て、稚拙でした。
 「子どもの時から本を読み、文章を書くようにしてきていれば良かったのに!」とどれほど思ったことでしょうか。
 大学生時代はとにかくよく本を読みました。通学の電車は、行きが聖書、帰りは信仰書や教育書を読むことになりました。面白いのです。とは言え、やはり小説などは読めませんでした。

書かなかった人が

 中学校の教師になった私は、生徒の評価の言葉を書くのが大変でした。なかなかよい言葉が浮かんでこないのです。本を読んでこなかったからでしょう。
 こういう自分でしたので、生徒達には文章を書かせようと思い、「美術ノート」を作らせ、毎時間美術の授業が終わると、生徒達に今日頑張ったことや、作品で私に認めて欲しい部分などを書かせるようにしました。すると、生徒の文章には私が驚くようなすばらしい文章が続出したのです。そこで、私は美術の通信を作り、生徒達の文章を載せるようにしました。そして、さらに学級通信、陸上部通信と作ったのですが、そうすると自分も書かねばなりません。いつも下手くそでした。

書かなかった人が

 そして今度は牧師になりました。説教をしなければならないのです。そのためには説教を書かなければなりません(もちろん、説教そのものは書かなくてもできるのですが、神学校の説教学の授業では書いて提出するのです)。なかなか説教を書くのは大変でした。

 高槻キリスト教会の牧師になりましたが、説教を書く時間がなかなか取れないことがわかりました。それをよいことに箇条書きにしたメモだけで語ることも多かったのです(と言いますのは、1ヶ月の内15日間は家庭集会というのをしており、その他は教会の集会、団体の会議、カウンセリングなどで、休める日が無い状態でしたから、説教を書く時間がなかなか無かったのです。言い訳に過ぎませんが・・・)。

 でも、文章を書くことは大事な事と思っていましたので、「御言葉日記」というのを始めました。御言葉というのは聖書の言葉です。
 聖書を毎日読んでいますから、その日読んだ中で感じた事、思ったことを短く書いてみようと決めたのです。
 それが後に、ある人に知られて、ちょうどパソコンをやり出したこともあって「メールで送ってよ!」と言われたことがきっかけで、その「御言葉日記」を、毎朝その人に送るようにしました。すると次々それを知った方が「私にも」ということで、配信する人が増えていきました。
 これは私の文章勉強のためのものだったのです。

書くことの勉強

 実は「子育て通信」もその一つでした。子育てのことを語っているし、話をするのはわりと楽なのですが、文章で求められるといつも困っておりました。そこで、毎月「子育て通信」を発行して、自分を追い込んでみることにしたのです。つまり「書かねばならない」状況に置いてみたのです。
 こういうことをしていると、本を読んでも、「こういう書き方があるのだ」とか、「この表現、いいなあ」とか思いながら読めますし、勉強になるのです。
 だから今も勉強中です。読んでくださっている皆さんには感謝しています。下手くそな文章を読まされて大変かと思いますが、私の勉強に付き合ってくださっていることを感謝しています。できましたら、引き続き私の勉強に付き合ってください。

成長・発達って?

 私は60歳ですので、老化の進行形の中にいます。しかし、人間は生まれた時から「死」に向かって歩み出したわけですし、成長しているといっても、体のある部分は20歳からどんどん老化していくと言われています。
 成長・発達とは何か? と考えさせられます。成長・発達とは同時に衰えていくことなのかと・・・。
 しかし、人格というのはそういう体などとは違うのです。まだまだ発達しているのではないかと思えます。
 「103歳になってわかったこと」(篠田桃紅著 幻冬舎)や「百歳は次のスタートライン」(日野原重明著 光文社)を読むと、60歳の私なんかは、まだまだガキンチョですね。

 篠田桃紅さんや日野原重明先生だけでなく、90~100歳という方々が、なおも色々なことに挑戦したり、社会の役に立つことをしたり、他の人々、子どもたちを励ましたりしておられるのです。まさに人格的成長だと思うのです。
 教育学、発達学の中ではこういう年齢に関しては未研究の分野のようです。100歳を超えた人がどのように生きたらよいのか調べようとされたのですが、そういう文献が無くて、自分が見本になるのだなと思われたそうです。

聖書のすごさ!

 この話を聞いて、私は改めて「聖書」のすごさを感じたのです。聖書には何才の生き方などとは書いていませんが、全ての人の生き方が書かれているのです。
 聖書の中には高齢者も登場します。とても人格的な人だと思う人も出てきます。しかし、人は人に過ぎず、悩み、苦しみがあり、また失敗もしています。聖書の人物から学ぶのは失敗からどのように進むか、困難や苦しみをどう乗り越えるかです。
 そして、何と言ってもイエス様の生き方が大事なのです。なぜなら見える神となったイエス様は、神ですから罪は犯されなかったのです。そこに本来人間が生きるべき清さが教えられます。
 人間となってくださったイエス様は罪はありませんでしたが、泣くことも、怒ることもありました。しかし、何と言っても大きな事は「愛」です。全ての人を愛されたこと、正しく神を愛されたことはイエス様からこそ学ぶことができます。このイエス様のお姿は私にとって大きな目標です(無理なのはもちろんわかっています)。

 そして、子どもたちを育て、教育していく目標も「イエス様」です。そのためには私自身もっとイエス様をよく知りたいのです。聖書を勉強し続けるのはそのためでもあります。

 聖書は不思議です。「いいなあ」と思う教育書は何度か読み返していますが、あの分厚い聖書は今までに何十回読んだことでしょうか。何度読んでも新しい発見があるのです。というか、聖書から教えられるのです。
 教育の書でもないのに、教育についても教えられ、あるビジネスマンは「ビジネスのあり方を教えられます」と言っておられました。

 いかがですか。今年、一緒に聖書を読みませんか?

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