子育て通信 #150

沈黙の愛

わかっているけど・・

 前回、聞き上手になる話をしました。ほとんどの親は子どもの話を聞こうとしていると思います。子どもの話を聞くためには子どもが話しかけてきた時には今している家事なども一旦手を止めて聞いてあげる方が良い、ということも知っています。
 理屈では子育ての良い方法を知っていても、現実はなかなかそのように行かないということを体験する人も多いのではないでしょうか。話を聞き始めたのに、子どもの態度が悪かったり、きっちりと話をしなかったりして、だんだん尋問形式になり、しまいには怒り出してしまう親も多いのではないかと思います。
 聞き上手になりたいというのは親だけではなく、学校の先生方も同じだと思います。私も教師時代そう思っており、生徒の話を上手に聞かれる先生からそのテクニックを学ぼうと努力したものです。

子どもが話したい人に

 一方、生徒の側からすれば話をしたいと思う先生と、話なんかしたくない先生がいるのです。いくら先生の側では話をして欲しい、話を聞くぞと意気込んでいても、生徒が望まないのです。
 ということは、生徒(子ども)が話をしたいと思える先生(親・大人)になることが大事なのかも知れません。つまり、親も教師も子どもと上手く話せる、子どもの話を聴けるように訓練する必要があると思います。

時代は変わった

 しかし、昔はこんなことを考えることも無かったと思います。私が子どもの頃、真剣に親や教師に相談したい、話を聞いて欲しいということ自体があったのか考えてしまいます。
 つまりこういうことを考えても、時代が変わったのだなあと思わざるを得ません。事実「聞き上手のための勉強会」があるというのは昔と何かが変わってしまったからだと思うのです。

 昔は「親がいなくても子は育つ」とか「放っておいても子どもは育つ」と言われていました。しかし、現代はそうはいかなくなったみたいです。そのために過干渉の親が増えて新たな問題が増えているわけです。子どもの将来を思うと、幼い内からあれこれ手を出さないと大変なことになるという強迫観念のようなものさえ親の側に植え付けられます。
 貧しいが故に子どもが非行に走ったというのはもういつの時代の話でしょうか? いつからか裕福な家庭の子どもが非行に走るようになってしまったのです。

親としての訓練を受ける

 ですから、昔なら何も子どもの話を聞く訓練など受ける必要もなかった親や教師が、現代はそういう訓練を受ける必要が出てきました。アメリカではそういう事態が早くに始まっていたため、そういう訓練も早くから行われていました。
 事実、問題を起こした子どもを持つ親はこういう訓練を受けておけば良かったと言いますし、「こういうことを知っていたらどんなに良かったことか」と残念がる人もいます。

 聞き上手になれないがために、問題を子ども自身で解決できるように導けなくなっています。そのため親が解決してしまって、子どもはその解決する力を身につけないまま大人になってしまい、大変苦労するという事が起こるのです。
 また、こういう子育てのことで親が頑張りすぎて夫婦の仲が悪くなるケースも出てきます。

ありのままを受け入れる

 ありのままを受け入れられているというのは、子どもにとってとても心が平安になるのものです。ありのままの自分を受け入れてくれることがわかると、その人に話をしようとします。悩みを打ち明けようとします。
 子どもを受け入れていると思っても、親の自己満足ということが多々あります。「親子なんだから話をしなくてもわかっている」(これは「夫婦だから話をしなくても通じている」と思う夫婦と同じ)と勘違いしている親がいます。子どもは、そういうわかろうとしない親に嫌気がさし、何も話さなくなるばかりか、とんでもない行動に出たりします。

黙ることも必要

 聞き手が話し始めると聞き手ではなくなるのです。

 子どもは言いたいことがあっても、そのありのままを話すことができるかというと、なかなかそうはいかないのです。大人でも「なんて言ったら良いのかなあ・・・」と自分の気持ちを話すのがなかなか難しいことは経験するものです。
 ましてや幼い子どもにとっては言いたいことの半分も、いや1%もうまく言えないかも知れません。

 ところが、親は子どもの言葉通りに受け取ってしまうことが多いのです。それが「ありのまま」を受け入れたことになるでしょうか?
 本当の「ありのまま」は言葉にできなかった部分を読み取って、その子の気持ちを受け取ることです。そのためには子どもの話に対して尋ねることを減らすことを努力してみるのも良いことかと思います。
 つまり、尋ねるというのは話を聞いているようでいて、こちら側の流れに入れ込もうとしていることが多いからです。
 ありのままの子どもの思い、考えを受け取るためには、ただひたすら、黙って聞いてあげることかも知れません。

沈黙に潜む愛

 「沈黙」という遠藤周作の小説が映画化され大変有名になりました。
 聖書には奇跡がいっぱい書かれているのですが、私たちも神様を信じていれば奇跡がたくさん起こるのかと・・・。神様がまるで沈黙なさっているかのように、何も起こらない、神様のお声も聞こえない、ということが往々にしてあるのです。

 クリスチャンの多くがこの事では悩むところです。
 何しろ神様に祈ることを覚え、時には祈ることで病気が癒されたり、大きな問題が解決したり、子どものために祈ると子どもが元気になったりということが現実にあります。

 私も懐かしく思い出すのは、息子が3歳の時、私は仕事で出かけなければならないのに、熱があり、頭痛がひどかったのです。その時、「お父さんのために祈って!」と息子に頼んでみました。
 息子は遊んでいたおもちゃを置いて、私のところに来ると、頭に手を置いて「お父さんを治してください。アーメン」と、シンプルな祈りをしてくれました。
 するとカップ麺ができる3分もしないうちに頭痛が消えました。もしかしてと熱を計ると平熱になっています。私は仕事に向かうことができたのです。

 こういうことを経験することもたくさんあるのですが、どんなに祈っても治らない、解決しないということも体験するのです。そのためにクリスチャンになっていても「神はいないのではないか?」と疑い出す人もいるわけです。
 しかし、この神の沈黙が実は私たちを訓練しているのです。沈黙というのは「聴いていない」のではないのです。聴いていて、敢えて黙っているのです。愛の一つの表現です。

 子どもに対して過干渉な親が増えていると言いましたが、グッとこらえて、働きかけないこと、あるいは子どもに考えさせるために黙っていることって大事なことだと思います。

 ここまで書いてくると聖書の「ヨブ記」を思い出しました。実に真面目に生きたヨブという人物が大変な苦しみに遭います。友人が彼を慰めにくるのですが、ヨブが何か罪を犯した結果だと思い込むのです。さらにヨブは苦しめられます。
 ある日、沈黙されていた神が遂に語られたのです。一気に話は進みます。ヨブも友人も深く考えさせられることが起こるのです。
 是非「ヨブ記」を、聖書を読んでみて欲しいです。

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