子育て通信 #53

自分のことで恐縮ですが

中学入学

 入学式、新学期、新しい学校(幼稚園)、新しいクラス、こういう言葉はある子どもには大変期待感があってわくわくするものですが、ある子どもにはとても辛い嫌な言葉でもあります。「新しいクラスになじめるだろうか?」「友達ができるかな?」という思いは「誰と一緒のクラスだろう?!」「担任の先生は誰かな?」と楽しみにしている子どもにはわかりにくい心境だと思います。

 そういえば私にもこんな時期があったのですね。幼稚園の入園式も小学校の入学式も中学校の入学式も覚えていません。すごく昔のことだからかも知れないですね。高校と大学の入学式は覚えています。

 あっ、中学の入学式は覚えていないのですが、その式の前に校舎の壁に張り出されたクラス発表は覚えています。二つの小学校から一つの中学校に来て、7クラスに分かれるのです。私の小学校は2クラスだったので、同じ小学校の生徒は少なかったのです。かなりが新しく出会う生徒ばかりで、気の小さな私はビクビクしていました。

 3年生まで着るつもりで買った学生服でしたのでダブダブで、手がきちんと出ません。その大きな学生服を襟のところもしっかり締めて、目がやっと出るくらいの学生帽をボソッとかぶってまるで学生服が歩いているかのような姿だったと思います。でも、それは私だけでなく、ほとんどの男子がそうでした。

 そして、自分のクラスを探しました。「1年5組」担任は女の先生。心配だらけでした。新校舎のできる前の古い木造平屋の教室は何となく、安心できる教室でした。たぶん、小学校の時の教室に似ていたからでしょうね。

 毎朝、あの詰め襟を着ていくのはしばらくは窮屈で仕方ありませんでした。しかも、体育の時間以外はずっとそれを着ているのですから、なおさらです。6月になって夏服になった時はすごく楽に感じました。



英語の授業にびびる

 自己紹介などの嫌な時間を過ごして、また嫌な身体測定などをして、授業が本格的に始まりました。「算数」と呼んでいた科目が「数学」に「図工」と呼んでいたのが「美術」に。若干の戸惑いはありましたが、すぐに慣れました。

 全く初めて触れる「英語」。初めのうちはローマ字とあまり変わらないと思っていたのですが、どうも違います。私は結局この英語がダメでした。1年生の時は易しくて点数も取れたのですが、考えてみるとその英語を話すことも聞いて理解することもこの時点でできていなかったのです。

 英語の授業をちょっと軽く見てしまい、2年生になると急激に難しくなりました。しかも英語の先生が産休のため、2回も替わったので、益々わからなくなってしまいました。「日本人がなんで英語なんかやらなあかんねん」なんて言って、まともにやろうとしなかったのです。この頃が第二反抗期だったように思います。



第二反抗期の始まり

 この時期に始まった第二反抗期は中学3年、高校生と続きました。

 中学3年の時は校則に反発を感じ、白のカッターシャツ、白一色の靴下しか認められていなかったのに、カラーシャツ、カラーソックスで登校したことがしばしばでした。学生服のボタンは上から2つをはずして靴のかかとを踏んだりしていましたね。今思い出すと笑ってしまいますが、その時はそれで格好をつけていたんでしょうね。

 「何のために勉強せなあかんねん(しなければいけないのか)」「なんで高校に行かなあかんねん(行かなければならないのか)」など思った時期です。



思うようにできない

 中学の2年、3年は体がかなり思うように動き、運動も楽しくてたまりませんでした。ところが、心臓検診でひっかかってしまい、少し気をつけるように言われました。

 高校に入るとかなり精密な心臓検診を受けさせられ、その結果、「運動制限」されてしまったのです。体の動く時で、動きたくてたまらない時期の運動制限は嫌なものでした。「死んでもええから走ったろ」と思いました。さすがに運動部には入れなかったので、数名の友人と放課後一緒に校外に走りに出ました。田んぼのあぜ道から、川沿いを走り、山道に入って「摂津峡」というきれいな渓谷に行き、その川の水で顔を洗って、引き返します。途中の公園で柔軟運動をしたり、童心に返って滑り台やブランコで遊び、また、走って学校に戻ってきていました。こんなに走っていたのですが、3年間は体育、体育祭での制限を受けていました。思うようにできないことが辛かったです。

 サッカー部に入りたかったのですが、友達はがんばっているのに私は入ることができません。クラブ活動の見えない校外で走っていたわけです。先生にも見つかるわけにいかないし。なぜか文化部に入ることを全く考えなかったですね。それも何かに反抗していたのだと思います。



母への反抗

 こんなことの後、大学受験前に失明しかけたのです。そのことがきっかけでイエス様を信じるのです。そのためには母の存在が大きかったのですが、すでにクリスチャンであった母には度々反抗していました。決して母のことが嫌いだったわけではありません。ただ、反抗期ですから反抗したまでです。

 教会に誘う母に、渡された集会のチラシを目の前で丸めて捨てたり、「神様がいるんやったら、なんで戦争なんかがあるんや」「神様がおるんやったら、なんで障害をもって生まれてくる子どもがいるんや」等々ぶつけていました。

 私の問いに答えることのできない母に私は勝利感を感じました。それは私が母に勝ったというより、キリスト教に勝ったような勝利感だったと思います。でも、実は心の中は虚しくなっているのです。「神様がいるなら・・・」と私は聞きました。神様がいないと思い込んでいましたから。でも、「神様がいなくて、人間が偉いなら、どうしてこんなにひどい社会になるのか?」という問題に対して私は答が出せなかったのです。いくら母に対して言葉で勝っても、問題山積みの状態は変わらないのです。世の中良くならないのです。益々反抗的になりましたが、それが度を越さなかったのは(私の場合ですが)、母が言葉で攻めてくることをせず、背後でイエス様に祈っていてくれたからだと思います。



子どものために祈る親

 今、私も子どものために祈るようになってあの頃の私の反抗に対して忍耐し、祈って待っていてくれたのは辛かっただろうなあと思うようになりました。

 子どものために「待つ」「忍耐する」「赦す」等々。本当に親になって知らされることがたくさんあります。神様への祈り無くして子育てはできないなあと痛感しているのです。特に反抗期の子どもには神様に祈って期待して、忍耐して、待つことがたくさんあるように感じます。「子育ては待つこと」「子育ては忍耐」とはよく言ったものだと思います。

 子どものために祈る祈りの言葉を書いた本から引用してみます。すばらしい祈りです。

「子どもを守る祈り」(いのちのことば社)より
 わが子を御手にゆだねる

 主よ、主イエスの御名によって(子供の名前)をあなたにおささげします。ただあなただけが、あの子にとって何が最善であるのかを知っていられることを信じます。

 あなたはあの子に必要なものをご存知です。あの子をあなたの保護の元におゆだねします。そしてあの子のためにあなたが私の心に示されること、私が思いつく全てのことについて祈ることを約束します。

 どのように祈り、何について祈るべきかを導いてください。あの子のために祈る時に、自分自身の希望を押しつけることがないように助けてください。あの子の上にあなたのみこころが成就することを祈れるようにしてください。私一人であの子を育てるのではなく、あなたとのパートナーシップの中で子育てできることを感謝します。


 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。

詩篇103:17-18

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