子育て通信 #63

見えないものにこそ目を留めて

不透明な時代

何年も前に「現代は不透明な時代」と言われ、先が見えないと言われました。当時の新聞のコラムに「未来とは常に不透明であって、はっきり見えるものではない」と書いてありました。その通りだと思います。

第二次世界大戦で日本は負けると思っていなかったようです。ところがだんだん様子がおかしくなって「負けるのではないか」と思う人も増えていきました。しかし敗戦して天皇陛下の玉音放送を聞いた時、どれほどの人が驚いたことでしょうか。「まさかこんなことになろうとは」と。

また1995年1月17日に阪神・淡路大震災が起こるとは誰が思ったでしょうか。何年も地震予知の研究がなされてきていながら、あんなに大きな地震さえ予測できなかったのです。

そして銀行・金融機関がつぶれる時代になったことにも多くの人が驚いたのです。大会社や百貨店の倒産なども相次ぎました。そんなことも誰が予想したでしょうか。何年も先を読んで企業経営をしてきたはずなのに、予想もしない出来事に見舞われてしまい混乱していきました。どこに人間の先を見通す力があると言えるでしょう。

そして、リストラ。この言葉が出始めた時は「大変ですね」とみんなが可哀想に思ったものです。ところが数年で「リストラ」はどこにも起こりうる言葉になってしまいました。今では派遣切り等で職を失った方が続出、大卒者も内定取り消しと大問題になっています。

経済状態は必ず上昇すると思って家のローンを組んだものの、思いがけない事態に家を手放さねばならなくなった人もたくさん出ました。その土地・家さえ、バブル崩壊、構造計算の偽装で、売ることも住むこともできない、どうして生きていけばよいのかさえわからなくなった方もたくさんいました。



子どもの世界にまで崩壊が

そして「崩壊」という言葉は教育の世界にまで入り込み、「学級崩壊」「学校崩壊」となって現れてきました。その背景には「家庭崩壊」があるとも言われています。

子どもの世界では「いじめ」が相当の数に上り、青少年犯罪は増加、幼児虐待、殺人事件も相次ぐ始末です。「平和な国日本」はあっという間に幻となってしまいました。



どうすればいいの?

それでは一体どうすればよいのでしょうか。「中国4000年の歴史」とか、ユダヤ人は国を失って2000年以上たって国家を造り上げたという、その背景にある徹底した民族意識、そういうものが日本には無く、日本という国に住みながら、お互いが真の仲間であるという意識をどの程度持っているのでしょうか。

アメリカもテロ事件で大変なことになりました。その中である運動が起こりました。それは神に立ち返る運動です。今まであまりにも人間の力を誇りにしてやってきて、神様をないがしろにしてきたのではないかということを反省し、謙遜になって神様のことを思い、自らを省みようとしているのです。果たして、日本にはどうなのでしょうか。



見えるものはわずか

どこの親も子どもが不幸せになることを願って子育てしているはずはありません。ところが、この愛情のゆえに時として問題が起こるのです。それは子どもを思う反面、子どものことを、あるいは子どもの発達をよく知らないために、「今の時点で、どこまで子どもに教えればよいのか」といったことがわからないのです。それでしつけが行きすぎて虐待につながったり、行きすぎた早期教育になり、子どもの精神面に悪影響を及ぼしたりすることが出てくるのです。

要するに、子どもの未来を良いものにしたいがために、あまりに今見えることをし過ぎるのです。西洋医学や科学的な思考が進みすぎて、見えるもの、数字に出されるものばかりに目が行くようになったのです。しかし、落ち着いて考えてみれば、見えるものはわずかであり、見えないものは沢山あることに気づくものです。



見えない「愛」

子どもは見えない「愛」を知るために見える親の愛情から学んでいくのです。しかし、おしめを替えること自体が愛ではありませんし、おっぱいをあげること自体が愛ではありません。その行動を通して見えない愛が伝わるのです。愛だけでは3次元の肉体を持つ人間には「愛」は伝わりません。人間が3次元の肉体だけの存在ならそれ以上のことは期待できません。しかし、3次元の見える肉体だけでないところに人格が存在するとすれば、愛の行動から見えない「愛」を子どもは学んでいくことが期待できるのです。



私の体験

私は中学の教師をしていましたが、教師を目指したのは高校3年の終わり頃でした。生き甲斐を感じる仕事がしたいと思って、職業の雑誌を見ている時に、養護学校で働く教師の写真に目がとまりました。今まで考えたことのない世界でしたが、すごく引きつけられたのです。担任に頼んで養護学校見学をさせて頂きました。そして、養護学校教師を目指すことにしたのです。それから大学にはいる時にクリスチャンになりました。

大学で教育、発達、人間を学びながら、聖書からその人間の本質などを知っていった時、「思春期」に人間として大きな節目を迎えることを知りました。そこに興味を持った私は中学生に興味を持ちだし、中学校教師になったのですが、現場は思ったより大変でした。それでも学校は楽しいところでしたし、生涯の仕事としたいと思っていました。

ある日、聖書を読みつつ、明らかに神様の導きであると感じることがありました。「牧師」になるということです。教師が大好きだった私にとってこの導きは何か間違いではないかと思いました。しかし、神様の導きがわかりその道に進みました。

駒込にある神学校で3年間の寮生活と勉強の生活が始まりました。その学びを終えて牧師になったわけですが、今は見えないものを人々に伝える働きをするようになったわけです。見えないものでも、「愛」「友情」などはまだ伝えやすいでしょう。今、私のしていることは、それよりもわかりにくいものかもしれません。しかし、「愛」以上にはっきりと存在する「神」を伝えています。



子育てにも言えること

教会の働きをしながら、教育に携わった経験を基に教育相談を受けて来ました。その中から今の教育には見える点数、見える「できること」にあまりにも重点が置かれ、いつしか、親も子どもをそういう観点で見てしまうようになったということに気がつきました。

西洋医学と東洋医学では、かなり人間に対するとらえ方が違います。教育でもとらえ方に違いがあると思うのです。教育でも子育てでも、見える点数や「できること」ではなく、子どもの中にある見えないけれども「その子らしさ」というものを育てていくということが大切だと思うのです。



神様が見ている

昔はよく「おてんとう様が見ている」などと言って子どもが大人の見ていないところでも悪いことをしないようにと言われてきたものです。ところが最近はこういう教えは科学的でなく、正しくないかのように見られ、教えられなくなってきました。

しかし、本当に神様がおられて見ておられたらどうでしょう。「お父さんやお母さんが見てなくても、神様が見ておられる」と教えるのは正しいことです。私は神様の存在を信じていますし、その神様はまさにイエス様ですから私たち人間を愛し、悪いことを考えたり、行ったりすることを嫌っておられることも知っています。



祈りは愛

神様がおられ、祈ることで神様とお話しできるというのがキリスト教であると思うのです。イエス様は十字架で「彼らの罪をお赦しください」と自分を十字架につけた人たちのために、救いを祈られました。どこに自分を殺す者のために祈る人がいるでしょう。呪う人ならいくらでもいるでしょうが。イエス様がすべての人を愛されたというのはまさにこうしたところからもわかるのです。

祈りは愛です。自分をどうしようが、愛する者のために祈るのです。私は子どものために祈られているたくさんのお母さんを知っています。



祈りの母

少し昔、19人の子どもを育てられたスザンナ・ウエスレーさんの祈りは有名です。子どもたちは有名な牧師、賛美歌作曲者になりましたが、彼女は家事をしているときでもよく祈ったお母さんです。彼女は祈るときエプロンを頭からかぶったそうです。幼い子どもたちは、お母さんがそうすると祈るということを知っていて、静かにするそうです。子どもたちは自分たちも祈られていることを知っているのです。

親が子どものために神に祈るのは愛なのです。人間の中にどれくらいの力があるというのでしょう。

人を造り、愛してくださっている真の神様に頼るということは果たして弱い、ダメな人間のすることでしょうか。自分の力の限界を知り、神様に信頼して委ねること、そしてその神様をまた子どもにも教えていくことは親の大切な務めなのです。



祈ってください

まず祈ってみてください。子どものためにでも、自分のためにでも結構です。きっと何かが始まると思います。

祈ることがよくわからないとか、もっとよく知りたいとか言われる方はどうぞ、お気軽に私にでもお聞きください。私は牧師ですからそれらのことをお伝えする者なのです。

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