子育て通信 #64

できないことは悪いことだろうか?

「障害児」?

 私は大学で障害児教育を専攻しました。障害児という言葉は決してよい言葉ではないと思います。しかし、今はまだよい言葉がないのであえてこの言葉を使いますが、私が大学に入学したときの私の研究室は「特殊教育研究室」と呼ばれていました。途中で「障害児教育研究室」となり、さらに卒業後は「養護教育研究室」と呼ばれるようになりました。数年のうちに呼び方がころころ変わるくらいよい言葉がないようです。現在も「障害児」だと人々の障害になる人のように思えるということから「障碍児」とか「障がい児」と書き換えているところも多々あります。私も何が良いかよくわかりませんのでひとまず「障がい児」と書かせていただきます。

遅れてるの?

 その障がい児教育を専攻したために私は多くのことを学ぶことができました。と言いますのは障がい児教育を学ぶなかで多くの実習をしてきました。実習によって多くの障がいを持った子どもたちと出会うことができたのです。

 障がいを持った子どもたちはいわゆる平均的なことができる子どもではないのです。健常児学級(普通学級)といわれるクラスの子どもたちですと、できて当たり前とされる勉強があります。しかし、それが障がい児学級(養護学級)ではできなくて当たり前になるのです。その現実を目の当たりに見てきました。子どもたちはみんな違います。いわゆる遅れていると言われる子どもは、発達段階のあるところでつまづいていると考えられるのです。それが障がい児学級ではあまりにまちまちでみんな違うことが教える側にとってとても大変だったわけです。健常児学級では速やかに進んでいくことがまずできないわけです。

どの子もみんな違うのでは?

 そういう状況の子どもたちをいかにして健常児に近づけるかというような教育が考えられていました。しかし、この教育を進めていきますと決して健常児と同じになることを目指すのがこの教育ではないと思えてくるのです。みんな違うのでそれぞれの子どもの持っている力を最大限出せるようにしてあげることが大切だと思えるのです。

 では、健常児といわれる、いわゆる普通といわれる子どもたちはどうなのでしょうか?学校ではみんな同じことができるように目標が設定されて、それに向かって進められていきます。しかし、健常児といわれる子どもたちもみんな違うのではないでしょうか。

 

アトピーで得たこと

 私はアトピーのために大変苦しみました。ステロイドが一般的に言われる前のことでしたから、塗っている薬がどんなものかも知らない時代にアトピーで苦しんだのです。アトピーを治さねばならない、普通にならねばならない、と思いこんでいくつもの皮膚科に通い、治すことばかり考えていました。

 しかし、最近になってやっとアトピーは体質であるから治すとかいうものではない、その体質といかにうまくつき合っていくかということを考えるべきだということを教えられました。目から鱗(うろこ)が落ちる思いでした。この体質を毛嫌いしないでうまくつき合ってみよう、と考え出すことができるようになりました。

 この考えになったときに子どもが勉強ができる・できない、運動ができる・できない、ということがどういうことなのかを考えることになりました。できないということはだめなことで、できるようにならねばならないのだろうかということです。できないことがいいと言っているのではないのです。子どもの性格、体質があるのにそれを考えずにできるようになることだけを目指すことが良いことなのかということです。

別のことができる

 養護学校での感動的な思い出があります。両手のない女の子が足で針に糸を通し服を縫っている姿でした。もちろんそんなに早く縫い上げることはできません。しかし、時間をかけても足だけで縫い上げてしまうのです。

 また、駅名をどんどん言っていく子ども、カレンダーを暗記していて「*月*日は*曜日」と言い当てる子どもとも出会い、びっくりしました。最近ではこうした人のことを「高機能自閉症」などと呼び名がついてきました。確かに一般的なことはできないのですが、私なんかにはとてもできないことが彼らにはできるのです。

 以前、テレビに自閉症の方が登場しておられ、思わずしばらく見てしまいました。その方は30数歳の方でしたが、子どもの時に自閉症であることがわかって親御さんも大変悩まれたそうです。一般的なことができない、人とうまくつきあえないなどお先真っ暗になっていたそうです。

 ある時その方が切り絵を教わるとすごく興味を持たれ、打ち込み始められたそうです。徹底的に打ち込むために出来上がるまで徹夜してでも仕上げるそうです。そして、その作品を人々に見て頂くために、またそれを通してコミュニケーションをとるために家を借りて、画廊のようにされているというのです。作品は実に丁寧で見事です。

 こうしたことを見ていきますと、何ができることがよいことなのか本当に考えさせられます。

できる・できない

 「違うことがいいんですよ」と最近よく言われるようになりました。私が大学で学んでいた頃は研究室の中ではそうしたことが言われていましたが、まだまだ一般的に言われる言葉ではありませんでした。

 障がい児学級の子だと「仕方がないか」というふうに諦められたりするのですが、健常児学級に通う子たちですと、勉強や運動ができないと「困る」と言われるのです。

 確かに教育は子どものできないことをできるようにしていくという面がありますから、できないと困るのでしょう。そして、いつしか「できないことはダメなこと」という考え方に定着していくようです。

 でも、先ほどいくつかの例に見たように、健常者は何でもできて、障がい者は全てに劣るというのではないのです。彼らだからこそできるものがあるのです。

水野源三さん

 私の大好きな詩人に「水野源三」という方がいます。ご存知の方もおられるかと思います。源三さんは小学生の時に大病をして高熱が続き、一命は取り留めたものの脳性麻痺になり、手足は全く動かず、言葉もしゃべることができなくなりました。

 家族にとっても大変なことになったわけです。何もできないまま毎日を過ごしていた源三さんはある日、足の不自由な牧師さんの訪問を受け、初めて聖書を読みました。それから、お母さんが聖書をめくってくれることで聖書を読み続けたそうです。漢字も読めるようになりました。また、源三さんは感じたことを俳句にするようにもなりました。50音表で瞬きして言いたいことを知らせるようにされました。彼の俳句が新聞に何度も載るようになり、次には詩を書くようになったのです。その詩はとてもすがすがしく、人々の感動をよびました。それで「瞬きの詩人」と言われるようになったのです。

できることを探してみる

 水野源三さんにしても、先ほどの自閉症の方も、養護学校で出会った子たちも、ある面では特別かも知れません。ごくわずかの人といえるでしょう。

 「彼らはそういうことができるのだからよい」「しかし、この子たちはそういうこともできないのだからダメ」と言われてしまいそうです。

 いつしか、日本の教育は同じことができることを目指してきてしまいました。しかし、ここでもう一度原点に帰って、子どもの持っているものに目を向けてみることが必要ではないでしょうか。みんなと同じことができることがよいのか、それとも神様がその子に与えている良いものを発見することがよいことなのか。果たしてできないことは悪いことなのでしょうか。

聖書の言葉から

幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、
水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
                       詩篇 1:1-3
 悪者とは意図的に神の命令に背く者のことです。罪人とは的はずれの生き方をする人のことで、神を知らない人生を送る人のことをさしています。あざける者とは誇り高ぶって神様や聖なること、霊的なことを馬鹿にする人のことです。

 聖書は人が幸せに暮らすことができるようにと神様が願っておられることがよくわかる本です。神様が人間をお造りになりました。そして、その愛する人間が幸せに暮らせるようにと正しいことを教えてくださっています。

 人というのものは自分の得た情報で考え、生きていきます。多くの情報は体験からくるもの、言葉からくるものです。正しい良い情報を持たないと人生はまさに真っ暗です。その人生は実を結びません。しかし、良い情報を持ち、それに従って生きていくならば、良い人生を送ることができるのです。

 体験的に、知識的に良い情報を持つことを目指したいものです。その点で神様は聖書をお与えになりました。ここには真理が書かれているのです。確かに教育や人生のハウツー的な書物ではありません。ですから初めは少し難しいと感じられるかも知れません。でも、人間の本質、生き方の基本が書かれていますのでとても大切な本です。

 この神様の言葉をいただいていくと、水路のそばに植わった木のように時が来ると必ず実を結ぶというのが神様の約束です。

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