子育て通信 #78

現代の子ども達が失ったもの

昔と今の違い

 皆さんは自分の子ども時代を思い起こして、現代の子ども達と「違うなあ」と感じることがどれくらいありますか?

 私は昭和30年生まれですから、これを読んでくださっている皆さんよりだいぶ古い人間かも知れません。ですから、私の子ども時代と、皆さんの子ども時代ですでに大きな開きがあると思います。

 私の子ども時代には「空き地」がありましたし、「裏山」がありました。どこの地域の話をしているのかと思われるかも知れませんね。大阪の高槻市というところで、とてもいいところです。大阪と京都のちょうど中間地点、今はJRの新快速ですと15分で大阪にも京都にも行ける便利な町です。

 その駅から少しのところに実家があるのですが、小学生時代にどんどん開発が進んできましたが、まだまだあちこちに空き地があり、小川や池がありました。ゲンゴロウやザリガニを捕りに行き、摂津峡という渓谷も近くにありましたので、そこに泳ぎに行ったり、魚を捕りに行きました。

 裏山は全部宅地造成されてしまいましたが、それまでの間、基地を造ったりして遊んだ、とても楽しい思い出のある裏山です。夏休みには朝4時頃から数人の友達と昆虫採集にも出かけました。近くの裏山ですので、親も何の心配もしなかったように思います。

 家の前の道路で缶蹴り、ローラースケートをして遊びました。車がほとんど走らない時代だったのです。

 近所の駄菓子屋さんに5円や10円もってお菓子を買いに行きました。「あてもん」と呼んでいた、薄っぺらい紙を濡らすと「あたり」「はずれ」「特等」など書かれた文字が浮かび出て、おもちゃがもらえたりして本当に楽しかったです(ちなみに私はおもちゃは当たりませんでした)。

 いかがですか? オールウェイズの映画のようと思われるかも知れませんが、あの映画の時代の少し後ですね。

  皆さんとはまただいぶ違った環境・状況にいたと思います。

 皆さんも自分の子ども時代を思い起こしてみてください。そして、今の子ども達とどれくらい違っているか考えてみてください。その違いが今の子ども達に何を与えているのか、これはなかなか問題だと思います。

 私は子どもの頃クリスチャンではありませんでしたが、いっぱい遊べたこと、自然も周りにいっぱいあったことは、私が信仰を持ってからも本当に良かったと思っていることです。

 それで高槻で牧師をしている時も、子ども達が自然に触れられる体験をさせたくて、夏には2泊3日のキャンプを自然のあるところで行ったりしました。

 また、遊ぶこと、仲間体験の大事さを思って、土曜日の子どもの集まりをもち、平日にも「宿題やろう会」と称して、宿題もしましたが一緒にいっぱい遊びました(このキャンプや集会のためには、家内はじめ教会の多くのスタッフのおかげで実現したのです)。

 神様は私たちのためにこの地球をお造りになったわけで、それは本当にすばらしいものだったのです。今は人間がかなり自然破壊してしまいましたが、神様は私たちのためにこの自然をくださったのです。単に食べるためだけでなく、自然に触れることで心も豊かになる、癒されるためです。

3つの「間」

 「最近の子どもたちは3つの『間』を失っている」ということを書いている本がありました。3つの『間』とは何かと言いますと、『時間』『空間』『仲間』だそうです。

 遊ぶ時間が無い、遊ぶ空間がない、遊ぶ仲間がいない、というように子どもたちにとってとても大事なものが失われているというのです。

 かつて「子ども時代を失った子どもたち」という本を読んだ時(今ではすっかり中身は忘れてしまいましたが)、子どもが大人になるためには子ども時代を過ごさねばならないのに、早く大人にされてしまい、子ども時代を失ってしまっているということにショックを受けました。

何が原因?

 「子どもは子ども時代を過ごす」というごく当たり前のことが、現代では当たり前でなくなったのです。子どもや少年の犯罪を見ても、子どもだからというものではなく、大人と区別のつかない犯罪や、子どもがここまで悪くなれるのかというような犯罪まで起こっています。

 いったい何が原因なのかということでは、色々な人たちが色々なことを言っていて、何が本当なのか結局のところ未だわかっていません。しかし、最初の三つの『間』を失ったこととか、「子ども時代を失った子どもたち」とかいう話は納得のいく話です。

 神様が人間に子ども時代をおつくりになったこと、また、人間の赤ちゃんは長い間親の庇護の元に過ごすようにつくられたことなどを考えますと、人間は赤ちゃんから子ども時代、少年時代と大人になるまでにそうした時期をそれなりの発達の中で生きていくべきなのでしょう。

しつけをするにしても

 子ども達により良い人生を送って欲しいと願い、厳しいしつけをされる家庭や、多くの習い事をさせておられる家庭も増えました。実際、しつけは大事な事と思いますので、しっかりしつけて欲しいと思うのですが、ちょっと考え込んでしまいました。それは何かと言いますと、子どもが十分に友達と遊んだりできているのであれば、その上でしつけることは大変有効だと思うのです。しかし、そうした、3つの『間』のようなものを失った子どもたちが大人からしつけだけ厳しくされるとどうなるかな? と考えてしまったということです。

 子ども時代は具体的なものをいっぱい見たり、触ったりして多くの事を記憶していき、後に抽象思考が発達していく中でその体験が大きな力となっていくということです。ですから、早い段階から言葉だけで教えたり、しつけたりしても、その言葉は記憶するけれども、その言葉に最もふさわしい行動を理解していないことが多いのです。

 そこで幼い時から3つの『間』のようなものを十分に体験し「子ども時代」をしっかりと過ごすことができたら、子どもはしっかりと育つと思います。すると、脳は抽象思考の発達段階に入っていっても、具体的なことをいっぱい蓄えているので、それを抽象思考と合わせて、言葉にも行動にも一致した考え方ができると考えられます。

思春期を迎えると

 子どもが成長して思春期を迎えると色々な難しいことが起こります。子ども自身、自分に関して悩みます。それが思春期です。その時に心が癒されない、心が開けられない、というのはかわいそうだと思います。

 そういうときに相談できる少し年上のお兄さん、お姉さんがいるといいなあと思っています。あるいはおじさんでもおばさんでもいいのですが。相談できるということはすばらしいです。親に話をしなくなるのが思春期の一つの特徴です。そういう時期に相談できるといいのですが、現代の子どもが失ったものに、これもあると思うのです。父親や母親に話せないことでも、安心して話せる年上の人です。それは学校の先生でも、塾の先生でもいいし、あるいは近所のお兄さん・お姉さんでもいいのです。親戚の岡おじさんでもおばさんでもいいのです。しかし、現代はそういう話のできる近い人がいなくなっているのではないでしょうか?

 私は「教会のおじさん」として近隣の子どもたちの話し相手になりたいと思って来ました。今もこの年でそれができるなら,「教会のおじさん」になりたいと思っています。思春期の子どもたちはみんななにがしか悩んでいるものです。それを聞いて、もしアドバイスできるならしてあげたいのです。

 

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(聖書 マタイの福音書18:20)

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