子育て通信 #79

育つのか? 育てるのか?

子育てが難しい

 またしても虐待のニュースが流れました。傷を負って死んでしまった子ども、ネグレクト(育児放棄)で死んでしまった子ども。もう二度とこんな話は聞きたくないと思ったのは何年前のことだったでしょうか?

 しかし、その後もと切れることなくこうしたニュースは続いています。虐待という暴力が幼い子どもたちの命を奪っています。「虐待はいけない!」ということは誰もが分かっていることです。しかし、「ハッと気がつくと子どもを殴っていた」「叩き始めたら自分を止められなくなった」などと言う母親達の声を聞いたことがあります。また、「自分も子どもを虐待してしまうかも知れない」という不安に駆られる母親達にも会ってきました。

 いつから子育てが難しくなったのでしょうか?

子どもは天からの授かりもの

 聖書には 「見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である。」(旧約聖書 詩篇127:3) と、書かれています。

 昔の日本でも「子どもは天からの授かりもの」と言って、子どもが生まれることを喜びました。聖書も日本人も子どもは決して「つくる」ものではなくて、「与えられる」ものと理解していたと思います。

 ところが近年、「子どもをつくる」という言い方が出回って、私はどうも違和感を感じています。確かに子どもが生まれるためのメカニズムもどんどん解明され、ある場合には男の子と女の子の産み分けまでできるとか、また、不妊治療も進みました(これは大きな助けとなっている方がたくさんおられ、喜ばれています)。

 しかし、反面残念なことに「つくる」のが自分だから「こわす」のも自分の勝手のように思って中絶してしまうケースが多いのには心が痛みます(色々な事情がありますので、一概に善悪を問うことは難しいです)。でも、子どもってつくったり壊したり、捨てたりできるものなのでしょうか?

 今も子どもが生まれることを喜ばない人はそんなにいないと思います。事件にまでなるのはほんの一部なのでしょう。しかし、子どもに対しての考え、育て方の考えは変わって来たように思います。時代は変わるのですから、子育ても変わって当然でしょう。問題はその変化が現代の親に子育てを難しくしてしまったのではないでしょうか?

ほっといても育つ

 昔は「子どもはほっといても育つ」と言われていました。事実、多くの子ども達はほっとかれたようです。それでもほとんど何の問題もなくすくすくと育ったのです。

 昔は電化製品の無い中、お母さん達の家事は大変でした。父親は戦後の経済復興に忙しく(と言ってもお父さん達の帰宅時間は早いもので、一緒に夕食を食べることができたのです)、子ども達は子ども同士で遊んで、夕食の時間に間に合うように帰ってくるようなものでした。少々どろんこでも「まあ、汚して」とだけで、どんな危ない場所で遊んでいたかも知らないのが当時の親でした。



 私も自分の子ども時代を振り返ると学校から帰るとすぐにまた学校や広場、裏山に行って友達と暗くなるまで遊んでいました。男の子ですから、基地を作ったり、虫取りしたり、学校に戻っては野球やサッカー、ドッチボール、ケンパ、肉弾、くちく水雷、戦争ごっこ、どうま、缶蹴り、鬼ごっこ、靴隠し、ビー玉、泥玉つくり、釘刺し、陣地取り、ひまわり、泥警、天下町人・・・まだまだ出てきそうですね。本当にいろんなことをして遊びました。こうして遊んでいる間のことを親は知らないのです。裏山は結構スリルがあり、危ないところもありました。池や川、今思うと柵もなくて一つ間違えば「死」でした。幸い誰も事故無しで遊べましたが・・・

 こんな状態ですから、親は子どもの遊びの状況を知りません。それでも別に心配しているわけでも無かったのです。どこの親も同じだったし、子どもが何人かで一緒に遊んでいるから安心していたのでしょう。

 こういう中で子どもはかってに育っていった部分が多くあるのではないでしょうか。子どもは「ほっといても育つ」時代がそこにはあったのです。

 いつからかほっといたら子どもが正しく育たない時代になったみたいです。どういうところにその原因があるのでしょうか? もちろんそんなに簡単にわかるものでは無いと思います。

専門家による子育て

 いつの頃からか、子どもはほっといたら育たないと思われるようになったようです。

 「人間だけは教育して人間になる」「親の育て方次第で子どもは変わる」「3歳までが勝負!」のような言葉がどんどん出てきて、子どもはほっておくと悪くなるだけで良い子に育たないと思われるようになったのです。

 確かにネグレクトに近いほったらかしは子どもを悪くするのは当然のことです。よい子に育てるためには親が多くの時間、子どもと関わる必要があるように言われました。

 しかし、女性が社会にどんどん進出していく今日は、「子どもは親が育てなくても大丈夫!」と言われるようになり、保育所・幼稚園などの保育士という専門家に任せた方が安心という風潮も出てきました。これも間違っていないのですが、じゃ正しいと言えるのでしょうか?

 子育ての専門家??? 果たして誰なのでしょうか? 保育士、幼稚園・学校の先生でしょうか? 小児科のお医者さん? どうも専門職を求めすぎるこの時代。子育ても専門職でないと安心できないのでしょうか。

 専門職は確かに良い働きをしてくださると思います。子育てに限らず、専門職の方はその知識や技術を生かして私たちに必要なものを作ったり、考え出したり、あるいは辛い状態から助けてくださいます。本当に大事です。もっともっと増えてもいいのかも知れません。

 しかし、料理の専門家だけが家族のために良い食事を作ることができるのでしょうか?家庭の味、お袋の味は何を意味しているのでしょうか? 子どもにとっては専門家の料理もいいですが、お母さんの手作りが良いのはそこに「愛」という隠し味があるからです。食べ物の中にある「タンパク質」や「ビタミン」だけが子どもの体をつくるのではなく、その気持ち、愛が子どもの体も心も作っていくものです。もちろん、悪い食材でもかまわないと言っているのではありません。食べる時の雰囲気も大事です。そうした色々のものが子どもを育てるのです。

 ですから、専門家は素晴らしい働きをしてくださいますが、そこから「自分流」のものを学び、「自分」で「我が家」を作っていくのです。

この子の親は「私」

 専門職は大事ですが、素人は素人なりにできることがあるのではないでしょうか? 私は「神様がこの子にふさわしい親として自分を選ばれた」という考え方に賛成です。それは私が子育ての専門家だから選ばれたのではなく、この子を育てていく中で自分も親として成長していくことを願われているのだということです。親として成長するというのは同時に人間として成長していくのです。

 立派だから親に選ばれたのではないのです。一緒に人間として、人格形成をしていくのです。失敗があったっていいのです。それをどう乗り越えるか、その思索が大事なのです。その時に落ち込むのでなく、もう少し楽天的に考えてよいのです。

 キリスト教の救いは、神様が私たち人間が努力して良い人間になったから救ってあげようとか、ここまでできるようになったら救ってあげようというような「救い」ではありません。そのままで救っていただけます。私たち人間はそんなに強くないのです。神様は私たち人間を大きな可能性をもつものとしてつくってくださったのですが、弱い存在であることも認めなくてはなりません。つまり、神様の助けが必要だし、自分で自分は救えないことを知らねばならないのです。

 この不完全な人間を大事な一人の子どもの親として信頼して選んでくださったわけです。(本当に感謝ですね。)

もう少し「育つ」ことを信じませんか!

 「よい子に育てなきゃ」というのは良い意気込みと言うよりも重荷になりすぎていると思います。親が子育てに重荷を背負い込みすぎると子どもはそれを感じ取って「自分がいるからお母さんは大変なんだ。自分さえいなくなればいいんだ」と思ってしまうこともあるのです。

 子どもが自分で育っていく力を持っている、神様がその力を与えておられることをもう少し信じてみませんか。

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