子育て通信 #84

挨拶のできる子

乾ききった冬

 大阪の気温が気になりながら毎日天気予報を見てきました。「歳をとった両親が寒くて大変なのではないか?」と、一応親不孝な私でも思っているのです。

 この冬は天気予報を見ていると東京よりも大阪の方が2度ほど低かったようです。例年は東京の方が大阪よりも2度ほど低いのですが・・・でも、大阪に行ってみると気温は低くても体感温度は東京より暖かく感じました。風が東京のように吹かないからでしょうか?

 まったく雨が降らないで何日が過ぎたのでしょうか。空気がカラカラで火事も増えています。そして、インフルエンザが流行し、学級閉鎖もかなりの数です。私も礼拝で説教しているだけで喉がかれてきます。皮膚科にはかさかさ肌で痒くて大変な子どもたち、肌が荒れてしまった子どもたちがいっぱい来るとニュースで言っていました。子どもの肌は大人よりも薄いので、すく乾燥してかさかさになるそうです。「加湿器をつけてください」ということでした。ジメッとした梅雨も辛いですが、カラカラの乾燥状態も大変です。


「寒いですねー」

 昨年の夏が異常なほど暑かったのですが、今年の冬は反対に大変寒く、日本海側では大雪に悩まされてしまいました。宮崎県では火山の噴火が長引き、多くの方が天変地異を感じておられるようです。

 そのためか、一般的な冬の挨拶「寒いですねー」だけでなく、「変ですね」も聞くようになりました。でも、この天気の挨拶っておもしろいですね。若い時に「なぜ、こんなつまらない挨拶をするのだろう?」と思ったことがありました。もっとよい挨拶はないのだろうかと。そして、天気以外の挨拶を考えてみたことがあるのですが、なかなか浮かばないのです。きっと日本人の長い歴史の中で天気の挨拶が定着してきたのでしょう。


挨拶の力

 「挨拶とは、会話のスタートを切るコミュニケーションなのだ」とある本に書いてありました。その続きに「話しかけなければ、会話は進まない」と。

 「寒いですねー」という当たり障りのない、かつ興味や関心事が違う人であっても同じように感じているこの天気の挨拶は、そこから始まる会話のためにとても良いスタートの言葉なのでしょう。たとえ、会話が進まなくても「寒いですねー」「本当に寒くて大変です」という互いのひと言だけで何となく心が通ったような気がするものなのです。よい言葉だなあと思います。


町内会長さんの「おはよー」

 関わりを持っている中学校のそばに町内会の方が立ててくださった看板がありました。「中学生、小学生に、声をかけましょう」というような内容で、近隣の方々に一声運動をされていました。

 前から町内会長さんがそのことを中学校の評議員会でも言っておられたので、看板を立てて実践してくださっているのだなあと感心しました。実際、その町内会長さんは朝に学校の前で生徒達に「おはよー」と挨拶をしてくださっています。


生徒の「こんにちは」

 私は東京に来て、中学校に長男を連れて挨拶に行った時に驚いたのが、生徒達が校内で見知らぬ私とすれ違う時、必ずと言ってよいほどみんな「こんにちは」と挨拶してくれることでした。大阪には悪いですが、大阪の中学校ではそういう経験があまりなかったので(今は大阪も違うかもしれませんが)、中学生の「こんにちは」のひとことがとても嬉しかったのを今もよく覚えています。

 PTA会長になって度々学校に行くようになった時も、いつも「こんにちは」と言ってもらえました。大人の私の心をもホッとさせてくれました。

 挨拶って本当にいいですね。


挨拶したが

 数年前になりますが、教会の前を多くの子どもたち、生徒達が通学していますので、声をかけてみました。「おはようー」と。しかし、ほとんどの子どもたちが無視です。とても寂しくなってしまいました。心が萎えましたね。知っている子どもが通った時は「おはよー」と言うと元気な声で「おはよー!」と返してくれましたので、元気を取り戻せたのです。

 ある時、子どもたちと話をしていて、「挨拶もしてくれないんだよ」と言ったら、「学校で先生から、知らない人に声をかけられても何も言わないように! って教えられてるの」という答が返ってきました。理解できました。あの子達はみんな先生の言ったことを守っていたのですね。「あー、大変な時代になってしまった」と思ったのは私だけではなかったようです。最初の挨拶で返答が無ければ、次に話が進みません。本当に「挨拶とは、会話のスタートを切るコミュニケーションなのだ」の言葉の通りだと思います。見知らぬ私に挨拶してくれた中学生が思い出されます。


イエス様のひと言

 聖書の中にイエス様が「サマリヤ」という町に行かれた時のことが記されています。その町の人達はユダヤ人とは交流しないという、お互いに仲の悪い状態でした。敢えてそこにイエス様は行かれたのですが、お昼頃、イエス様は一人で井戸のそばにおられました。水をくみに来た女の人にイエス様は「水を飲ませてください」と言われたのです。

 その女の人は、心の中で「どうして、こんなところにユダヤ人のラビ(宗教の教師)がいるのだろう。邪魔だな」とでも思っていたでしょう。なぜなら、暑い日中に井戸に水をくみに来る女性はほとんどいません。彼女は男性問題があって、町の人達と会わないように生活してきました。だから、人のいない昼間に水を汲みに来たのに、よりにもよってユダヤ人のラビがいるのです。しかも、ラビは普通往来で女性と話をしないものなのです。そのラビの方から声をかけてきたのです。

 つっけんどんに受け答えするのですが、水の話から、彼女の心の問題に話を進めて行かれ、彼女はイエス様を「預言者」だと理解しました。さらに彼女はイエス様と話をする内にイエス様が「救い主(キリスト)」であることを認めたのです。そのとたん、彼女の心は変わったのです。

 イエス様の「水を飲ませてください」という最初のひと言から話は進んで、彼女の心を解放したのです。

 また、の別の箇所には「ザアカイ」という男性(取税人)が登場します。彼は噂のイエス様を見たくて行ったのですが、すごい人だかりで背の低いザアカイには見えませんでした。急いで、木に登って見ていました。そこに、イエス様はお出でになって「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」と言われたのです。彼の名前を知っておられたのです。ザアカイがまだひと言も発していない時に、イエス様の方から声をかけてくださいました。

 ザアカイはその後イエス様とお話をして心が変えられていきました。不正を働き、嫌われ者だったザアカイがイエス様とお話をして、心が解放され、罪を悔い改め、変えられていったのです。

 イエス様の最初のひと言が人を変えるきっかけになりました。


私たちのひと言

 私たちの周りにも、ひょっとすると、そのひと言を待っている人がいるのかも知れません。

 「おはよう」「こんにちは」「寒いですね」「天気が変ですね」など、最初のひと言はたいしたことのないひと言かも知れませんが、そこから大切なコミュニケーションが始まるのでしょう。

 確かに子どもたちには「知らない人に話しかけられても無視するように」というのは今の時代には必要なことかも知れませんが、挨拶できる子どもになって欲しいというのは多くの人の願いだと思います。

 子どもには誰に挨拶して、誰に挨拶してはいけないのか区分けが難しいと思います。しかし、子どもたちは親や大人の姿を見て学んでいます。気持ちよく挨拶をする姿は子どもたちの心にも響くはずです。

 かつて高校の正門で遅刻者を入れないように扉の番をしていた先生が時間になったので閉めたところ、生徒を挟んでしまって死に至らた悲しい事件がありました。生徒の登校を心から喜んで「おはよー」という温かい気持ちで迎えてくださっていたら、こういうことにはならなかったような気がします。活字では同じ「おはよう」のひと言でも実際に語る時には、気持ちが表れるのです。気持ちよく「おはよ-」という挨拶をしたいものです。


 ここまで書いて、自分は「家族の中でも挨拶、感謝をしているかなあ?」と、ちょっぴり反省をした次第です。

 最後まで読んでくださってありがとうございました。

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