子育て通信 #85

けじめが節目

卒業式の時期

 早いもので2011年ももう3月になりました。この時期は卒業式の時期ですね。私たちの日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中央聖書神学校も8日の午後7時に卒業式が行われました。また、私が属する学校支援本部のある中学校も18日に卒業式が行われます。残念ながら、今年も仕事のために卒業式に参列できません。ボランティアで見ている美術部の生徒5名が卒業します。

私の卒園式

 皆さんはご自分の卒業式をどれくらい覚えていらっしゃいますか? 私も思い出してみるのですが、なかなか思い出せないのです。幼稚園の卒園式がほんの少し思い出せました。広い遊戯室(幼稚園児だったので広く感じただけだと思います。本当はそんなに広くなかったと思います)に集まっているところだけ思い出しました。段ボール箱で作ったジェットコースターが飾られていて、最後にそれを欲しい子どもにくださったのですが、恥ずかしがり屋の私は「欲しい」が言えませんでした。そのためあっという間に「ほしい!」と叫ぶ子達に持って行かれたので、卒園式はそこのところだけ覚えています。

小学校の卒業式

 小学校の卒業式は覚えています。もちろん全部ではありません。講堂に集まり、一人ずつ壇に上がり、卒業証書をいただいたのです。何度か練習したので印象に残っているのでしょうか? 恥ずかしがり屋だから壇に上がるのが恥ずかしくて覚えているのでしょうか? この時点で私が教師になって壇上から生徒に向かって語ることがあるとは誰が思ったでしょう。親も私も親戚も思わなかったはずです。それくらい恥ずかしがり屋でおとなしかったからです。

思い出せない卒業式

 中学の卒業式、たくさんの生徒が体育館にぎっしり入っているところしか思い出せません。残念です。きっと好きになった女の子のことしか頭に無かったのかも知れません。一学年年下の女の子で後ろにいるはずなんですが、見ることもできず、担任の先生から自分の名前を呼ばれるタイミングを思ってドキドキしていたのだと思います。

 高校の卒業式、全く思い出せません。きっと交際し始めた女の子との別れ(彼女は専門学校、私は大学)で今後のことを考えていたのかも知れません。

 大学の卒業式。だめです。式は思い出せません。集合写真を撮ったところだけ覚えています。すべての卒業式を終えて晴れて社会人になれるという喜びで・・・いいえ。この時、私は教師採用試験に落ちて、就職先が決まっていなくて不安があったのです。みんなは滋賀県や京都府、大阪府に採用が決まっていただけに、私は不安でした。でも、クリスチャンって不思議ですね。クリスチャンになってまだ4年なのに、何かしら不安よりも「大丈夫」という安心感の方があったのです。

もう一回あった卒業式

 もう私の人生に卒業式は無いと思っていました。ところが、私は中学校の教師を辞めて、私の属する教団の神学校「中央聖書神学校」に入学したものですから、1986年3月にもう一回卒業式があったのです。私は卒業を前に体を壊し痩せこけてしまいました。その時の写真を見るのもイヤです。牧師になる晴れの舞台がイヤな思い出になってしまいました。

 でも、校長先生から証書を手渡され、握手をしてくださり「おめでとう」と言ってくださったときはやはり感激でした。

卒業式

 「なぜ、卒業式なんか、するのだろう?」と子どもの頃には思っていました。どこか反発心のある子どもでしたので、こういう式典とかが嫌いだったのです。「こんな無駄なことしなくてもいいのに」と思うタイプでした。その性質は今も持ちつづけている面はあります。でも、式典の大事さを知ったのは教師になり、さらに牧師になってでした。

 教師時代、私は教え子の卒業式に参列します。そして、私のクラスの番になると、一人一人名前を読み上げるのです。名前を間違えないように、何度も練習しました。ミスらなくてホッとしました。彼らを送り出すことにすごく喜びを感じ、同時に淋しさを感じました。複雑な心境です。

 高校生になる彼らと、これが最後だと思うととても淋しく、悲しいのです。ところが、これで私の仕事は終わったというすごい安堵感もあるのです。卒業式はそういう気持ちのけじめという点でとても大事なのです。

 かつてある先生のお話で、「式典は『けじめ』であり、自分の意識の中にしっかりと組み込み、気持ちを切り替えるのだ」と言われました。確かに幼稚園から小学生になると一気に幼児らしさが抜けて小学生らしくなります。「お兄ちゃんになるんだ」「お姉ちゃんになるの」と意識することで、そのように変わっていくというのです。

 うちの子どもたちが卒園した幼稚園の園長先生が卒園式で「あなたたちは、もうこの幼稚園の子ではありません。それぞれの小学校の子になるのです。もう幼稚園に来てはいけません」と挨拶されました。きつい言葉に聞こえるのですが、この言葉はとても大事な言葉で、私は忘れることができなくなりました。

勉強にも差が出る

 私が中学生の時、担任や他の先生方から「けじめをつけるように!」と度々言われたのを覚えています。ずっと、そういうことを言われてきましたので、慣れっこになって「けじめ」の意味をしっかりと考えることもしませんでした。

 ですから、教師になって初めて「けじめ」の大切さを知ったのです。例えば、「今から授業をうけるぞ!」と、休み時間とけじめをつけて、気持ちを切り替えると勉強に取り組めます。

 しかし、だらだらと休み時間の雰囲気のまま授業に入るとはかどりません。

 高校の時の国語の先生(女の先生でしたが、とても男性的な方でした。でも、楽しくて好きでした)は、いつも授業の最初に、腕まくりして「さあ、始めるぞ!」と大きな声で言われたのです。私たち生徒も国語の授業が始まるという気持ちにしっかりとなるのです。こういう切り替えがしっかりするのとしないのとでは、大きな差が出ます。

人生のけじめ

 卒業のことを書いていましたら、ふと高校卒業前後のことを思い出してしまいました。大学受験を控えた3月初めに失明しかけて(視神経が半分死んでしまったらしいです)、クリスチャンの母が祈ってくれて、大学病院に行ったら治っていたという不思議な体験をしました。受験を終え発表を待つ間、私は気になって仕方がありませんでした。「神様はいるのか? いないのか?」目のことは私の体験の中で大きな出来事でした。このことから神様がいるか、いないで、私の人生が違うような気がしたのです。

 そこで確かめることにしました。ちょうど高校生のためのバイブルキャンプが大阪の淡輪(たんのわ)というところで持たれることを知り、行くことにしました。その2泊3日の間に私は、神様の存在を認めました。つまりイエス様を信じてクリスチャンになったのです。

 神様がいないという人生から、神様がおられるという人生に切り替えたのです。けじめをつけました。そのために洗礼も受けました。

 確かに私の人生は目的がはっきりしたように思います。考え方にも変化が生じたようです。大学と神学校は今までに無いくらい勉強したと思います。勉強したくなったというのが本心です。

 恥ずかしがりという基本的な性格は変わりませんが、人の前に立って話せる人間になるとは思ってもみませんでした。人生で大事なけじめをつけたからでしょうか。

 けじめって大事ですよね。

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