子育て通信 #94

養護学級を担任して

卒業・卒園の時期ですね

 あっという間に2011年度も終わる3月となりました。あちこちで卒業式・卒園式が行われます。ボランティアで行っているK中学校の美術部も、「三年生を送る会」のために模造紙4枚を貼り合わせた大きな紙2枚に羽ばたく鳥を描いて体育館に張り出します。この壁画を描くと「卒業」を感じます。

 昨年の7月まで一緒に活動した3年生も高校受験で大忙しだったみたいで、なかなか会うこともできませんでした。ある時、校長室の前で一人の生徒と出会いましたら、「面接の練習なんです」と、少し緊張した面持ちで名前を呼ばれるのを待っていました。本番もしっかりと面接に臨んで欲しいなあと思いました。



産休講師になれた

 面接といえば、私は高校受験でも、大学受験でも面接は無かったので、教員採用試験の時に面接されたのが初めてです。正確には、その前の年に、最初の採用試験に落ちたため、高槻市の教育委員会の学校教育課課長さんに面接していただいたのが最初です。

 「高槻市で講師をするのは難しいから、他の市にも履歴書を出しておく方が良い」と丁寧に教えてくださいました。その時、「こんなにたくさんの希望者があるからね」と見せてくださった履歴書の束には驚きました。500人はいたでしょうか。

 いわゆる就職試験に落ちて、就活をしていたわけですが、講師の道は断たれたかと思いました。ところが、1週間後にその課長さんから電話をいただき、「すぐに来い」と言われるのです。何事かと思って行きましたら、私の母校、高槻市立第一中学校に産休講師で行って欲しいというのです。なんでも、産休に入っている先生は美術の先生で、その年の受け持ちが養護学級(障がい児学級)だったのす。校長が養護学校教諭の免許を持つ人が欲しいと言ったそうです。私は美術と養護学校の免許を持っていました。あの500人くらいの中でこの二つの免許を持っていたのは私だけだったそうです。

 思わぬ就職の道が開けました。バイトを探したり、女子高校の美術教師を考えたり、悩んでいただけに大喜びしました。即、書類を提出して初出勤に備えました。気持ちがわくわくしていました。どんな生徒達がいるのだろうか? と、楽しみでなりませんでした。



仕事が始まった

 産休講師ということで、初出勤は4月5日でした。職員室で校長先生から紹介された後、1階の玄関から一番近いところにある教室「養護学級」の職員室(4人の担任がいて机も4つだけの狭い部屋)に入り、改めて他の3名の先生方に挨拶して、自分がクリスチャンであることもお話ししました。

 入学式の準備のためにあちこち掃除をしていますと、準備をしに来ていた3年生の女の子達が近づいてきて、「先生ですか?」と聞きます。嬉しかったですね。最初に話をしたのが女子生徒ですから・・?? 実はこの時に話をした女子生徒のクラスに養護学級の生徒4名が所属していたのです。ですから、私も時々そのクラスを見に行きました。

 初めて養護学級の生徒達と出会った時、かわいくてたまりませんでした。6人(3年生4人、2年生1人、1年生1人)だけだったのですが、校区とは関係無くかなり遠くから来ている生徒もいました。二人は親が送り迎えしていました。一人の女の子は言葉がありませんでした。反対に新入生のK君はとてもよくしゃべります。でも言葉が変でした。私のことは「ふじせんせ」で、丸山先生は「まるまんせんせ」、バドミントンは「バビントン」、枚方市(ひらかたし)は「ひらたかし」等々でした。でも、よくしゃべってくれるので、すぐに慣れました。



Z君

 そして、私が特に観ることになった生徒は3年生男子のZ君。彼は脳腫瘍があって、たくさんの薬も飲んでいましたので、多くの辛さを味わっていた生徒です。彼は突然てんかん発作を起こして倒れるので、十分気をつけておかねばなりませんでした。池や焼却炉、階段などは大変危険な場所でした。実際、彼が朝礼台に上ったときに発作を起こしたことがありました。幸い受けとめられましたが、彼はよくそういう所に行くのです。ですから私は毎日彼を追いかけて走り回っていました。なぜ私が彼の担当をするのか理由はすぐに分かりました。脳の異常と薬の副作用でイライラしたりするらしく、池や焼却炉に生徒達の上靴や筆箱などを投げ込むのです。池の掃除をした時にはたくさんの色んな物が出てきました。彼との毎日は大変でした。一日が終わると疲れがどーーと出てきます。とても、次の採用試験に向けて勉強なんてできませんでした。が、彼のことは大好きでした。

 彼らとの思い出はたくさんありますが、修学旅行に行った時、私はほとんど彼につきっきりでした。ロープウェイで頂上に着くとすごい人で、私は彼の横につけなくて、後ろに着きました。たいてい後ろに倒れるからです。ところがその時は前に倒れたのです。ヘッドギヤをしているとは言え、かなり痛かったと思います。本当に私は申し訳ない気持ちで一杯でした。彼をおんぶして宿まで戻りましたが、結構重かったです。夕食時には彼も落ち着いていました。

 その食事の時、一人の女の子がなかなか食べようとしませんでした。「Mちゃん食べていいんだよ」と主任(女性)が言われると「これ全部わたしの?」と聞きます。彼女の家は9人兄弟姉妹で、今まで自分の分として盛られた食事をしたことが無かったのです。大喜びして食べる小さなMちゃん。お兄ちゃん達に取られること無く安心して食べたみたいです。

 夜は女の子3人は主任達と、Z君は私ともう一人の男の先生の3人で一部屋でした。助かったのは、朝までグッスリ眠ってくれたことでした。



K君

 6人の生徒達とエキスポランドに遠足で行った時はまた大変なことがありました。今度はK君です。ダイダラザウルスというジェットコースターに乗ったのです。みんなこれに乗りたくてしかたがなかったらしいのです。私は臆病でこういうのは嫌いなのですが、生徒達みんなが乗るというので、一緒に乗るしかありません。さすがにZ君だけは乗ってはいけないので、地上組でした。そこで私がK君の横に着きました。よくしゃべる彼は嬉しくて大はしゃぎです。私とK君は一番前に乗りました(この日、お客さんは少なかったので前に乗れたのです)。カタカタとジェットコースターは上がっていきました。その高さに驚いたのは私だけでは無かったようで、K君の表情が変わりました。彼は「おりる!!」と叫びだしたのです。それだけならいいですが、本当に降りようとして立ち上がるのです。いくら安全ベルトをしているとは言え、立ち上がられるととても危ないです。私は「K君、座れ!!」と叫びながら、彼を捕まえて座らせようとしました。前の棒を握っていたかったのに、手を離して、彼を捕まえているしかありません。そして、てっぺんに来てしまいました。急降下です。もう何がどうなったのか、何も覚えていません。ひたすら彼を抱きかかえるようにして座らせ続けていました。長い時間が(本当は長くないのですが)流れ、ガガガと駅で止まりました。一気に力が抜けました。私のジェットコースター嫌いはますます本物になってしまいました。

 なのに、彼は学校に帰ると「ふじせんせ、おもしろかったなあ」と言うのです。笑うしかありませんでした。

 この遠足に主任は幾つかのお弁当を持って来られました。しっかりしたお弁当を作れない家庭があるからです。そういえば、毎日の弁当の時間(給食では無くて弁当だったので)、主任は毎日おかずを多い目に持って来ていました。そして、数人の弁当箱にそれを入れておられました。今回はさらにそれ以上の弁当でした。6人の生徒と4人の先生で食べたお弁当は格別でした。

 12月1日までその中学校で産休講師をし、そこでの仕事は終わりました。その日は辛かったですね。

 その後、2週間だけY小学校の6年1組の担任をしました。病欠の先生の代わりを務めたのです。この時のこともいつかお話ししたい内容がたくさんあります。

 それから、ある中学校の事務職員をして三月末に終了。幸い採用試験に合格していたので、4月1日から高槻市立第九中学校に正教師として赴任できました。

 私は実際に生徒達と触れ合って多くの事を学ばせていただきました。そして、私には何もできないことを実感したのです。障害をもっているとはいえ、みんな成長して行くのです。神様が彼らを守ってくださっていることを感じたのです。彼らの目は澄んでいました。見守ってもらわないと、助けてもらわないと、一人ではなかなか生きていけない彼らは、私たち教師に心底信頼してくるのです。それに応えられるほどの愛が無いことを実感した私は仕事に行く道いつも神様に祈りました。「愛をください」と。

 聖書にも 「愛を追い求めなさい。」(Ⅰコリント14:1)とあるのです。また、

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(ローマ12:10)という言葉もあるのです。

バックナンバー