エリシャのしもべゲハジ

礼拝メッセージ

2025.6.15礼拝
テーマ: 神の御前に正しく歩む
説教題: 「エリシャのしもべゲハジ」
テキスト: Ⅱ列王記5:20~27

5:20 そのとき、神の人エリシャに仕える若者ゲハジはこう考えた。「何としたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。【主】は生きておられる。私は彼の後を追いかけて、絶対に何かをもらって来よう。」
5:21 ゲハジはナアマンの後を追いかけて行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から降りて彼を迎え、「何か変わったことでも」と尋ねた。
5:22 そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私を送り出してこう言っています。『たった今、エフライムの山地から、預言者の仲間の二人の若者が私のところにやって来たので、どうか、銀一タラントと晴れ着二着を彼らに与えてやってください。』」
5:23 するとナアマンは、「ぜひ、二タラントを取ってください」と言ってしきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を自分の二人の若者に渡した。そこで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。
5:24 ゲハジは丘に着くと、それを二人の者から受け取って家の中にしまい込み、彼らを帰らせたので、彼らは去って行った。
5:25 彼が家に入って主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。おまえはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行っていません。」
5:26 エリシャは彼に言った。「あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか。今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。
5:27 ナアマンのツァラアトは、いつまでもおまえとおまえの子孫にまといつく。」ゲハジはツァラアトに冒され、雪のようになって、エリシャの前から去って行った。

Ⅱ列王記5:20~27

異邦人ナアマンの救い

さて前回はナアマン将軍のお話をした。彼は異邦人で、ツァラアト(重い皮膚病)を煩っていた。だが、彼の妻に仕えていたイスラエル人の娘にエリシャのことを聞き、いやしてもらおうとエリシャを訪ねた。エリシャ自身は、ナアマンと直接会うことはしなかったが、その弟子からヨルダン川で身を7 回洗えばいやされると伝えられる。彼は当初その言葉に従わなかったが、しもべたちに説得されて実行する。すると彼のツァラアトは癒やされ、幼子のような肌によみがえったのだった。ナアマンはこれによって真の神様を信じる者になった。そこでナアマンは、持ってきていた御礼の品をエリシャに渡そうとしたが、エリシャはそれを受け取らなかった。

エリシャのしもべゲハジ

今回の出来事以前、ゲハジはどんな働きをしたのだろうか。
同じⅡ列王記の4 章にシュネムの裕福な女性の事が記されている。彼女はエリシャのために自宅に部屋を用意し、エリシャがシュネムに来る度に彼をもてなした。ある日、エリシャがその御礼に何をしようかと考えた。そこでゲハジは、彼女には子どもがいないので与えられるようにしてはどうかと提案する。エリシャはその提案を受け入れ、彼女に「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる。」(Ⅱ列王記4:16)と語った。すると、その言葉通り彼女に男の子が生まれる。しかし、その子は突然亡くなってしまう。
ゲハジはエリシャに遣わされて、エリシャの杖をとってその子を生き返らせようとするが出来なかった。その後、エリシャ自身が子どもを生き返らせる奇跡を行ったのだった。
Ⅱ列王記の8 章にもゲハジが登場するが、これはツァラアトに冒される以前の話であると言われている。

ゲハジの罪

ゲハジは若いとはいえ、いつもエリシャのそばにいて、彼に仕えていた。そして、エリシャを通して神のみわざ見てきた。しかし彼は、ナアマン将軍の贈り物に欲をそそられてしまう。ゲハジは、誓願の言葉を言って、自らの行いを正当化しようとした。「【主】は生きておられる。私は彼の後を追いかけて、絶対に何かをもらって来よう。」この「主は生きておられる」という言い回しは、誓いの言葉を述べる時の慣用句である。「これから話すとおりにしなかったなら、主よ、またあなたのさばきを受けても構わない」という意味がある。何という言葉をゲハジは口にしたのか!
彼は急いでナアマン一行を追いかけた。ナアマンは彼に気づき、「何か変わったことでも」とたずねる。エリシャは贈り物を要らないと言ったのに、その後あわててしもべがやって来るので、そのように言葉をかけたのだろう。ゲハジはこれに対し、全くの偽りを言う。「変わったことはありませんが、私の主人は私を送り出してこう言っています。『たった今、エフライムの山地から、預言者の仲間の二人の若者が私のところにやって来たので、どうか、銀一タラントと晴れ着二着を彼らに与えてやってください。』」と。「預言者の仲間の二人の若者」などと、架空の人物まででっち上げ、しかもエリシャが「銀一タラントと晴れ着二着」を彼らに与えてやって欲しいと言っているかのように頼んだ。ナアマンはゲハジの言葉を信じて、銀一タラントではなくもう一タラント足して、晴れ着二着と共にくれたのだった。それをナアマンのしもべたちに運ばせた。だが、ゲハジはエリシャの家から見つからないようなところで贈り物を受け取り、彼らを帰した。そして、贈り物を隠してしまう。エリシャは全ての事を知っていたが、ゲハジを責めるのではなく次のようにたずねる。「ゲハジ。おまえはどこへ行って来たのか。」ここでエリシャはゲハジが正直に答える猶予を与えていたのだが、彼はしらを切る。「しもべはどこへも行っていません。」そこでエリシャは言った。「あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか。今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。」(5:26)こうしてゲハジは、かつてナアマンが患っていたツァラアトに冒され、エリシャのもとを去っていくのだった。このⅡ列王記5 章では、救いから遠いと思われるような異邦人ナアマンの救いと神の民ゲハジの滅びが対照的に描かれている。

結び)

神の人エリシャに仕えるゲハジだったが、欲に囚われ、罪を犯してしまった。私たちもただ教会の礼拝に行っている、奉仕をしている、献金しているなどという形ばかりを整えて、その実、罪を犯していては何の意味もない。愛なる神は、何でも私たちの行いをよしとはされない。罪に対しては厳しいお方なのである。私たちはいつでも、神の御前に正しく歩む者でありたい。