
イエスは共におられるか
2025/6/22 礼拝説教
【テーマ】 安息日
【説教題】 「イエスは共におられるか」
【聖書箇所】 マルコ3:1-6
【説教者】藤井敬朗牧師
3:1 イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
マルコ3:1-6
○ 安息日の話が結構出てきます。安息日を守ることがユダヤ人としてのアイデンティティを保つ方法でしたから、ユダヤ人は安息日律法にピリピリしていたと言えます。安息日にしてはならない労働をパリサイ人が作り出し、1521もの安息日禁止労働を作ったと言います。しかし、安息日の本質をわきまえないで律法主義に陥ってしまったため、イエスは敢えて問題行動を起こして正しい安息日の意味を示そうとしておられるように見えます。
安息日に何を見るか?
裁きの目
1.ここでまた、イエスは一人の片手の萎えた人を癒されます。その様子を見ている人たちは、イエスに関心を持っている人と、裁きの目で見ている人でした。 3:2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。 と。イエスを訴えたい律法学者達にとっては最高の材料です。
2.律法学者達は病人が癒されることを共に喜ぶ気持ちなどさらさら無いようです。ただ裁きの目でイエスを見ていました。キリスト教に反発していたかつての私もそうでした。訴える材料を探しているだけで人の心に平安があることなど考えようともしませんでした。
イエスを見る目
1.病人はイエスに呼び出されました。 3:3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」 まだ、癒されてはいません。癒されたので出て行くのなら簡単です。まだ癒されていないけれどもイエスに呼び出されたから出て行く、ここにことが始まるのです。 3:5 イエスは・・・その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。 と、癒しが起こったのです。
2.十字架の前に、イエスの前に立たないと見えない世界があります。信仰の世界というものはそういうものです。聖書の人物の気持ちはイエスの前に立たないと見えてきません。病気の問屋と言われた三浦綾子さんや瞬きの詩人と言われた水野源三さんは癒されていませんが、イエスの前に立った人達です。癒されることよりも不思議な平安をいただいたと言えます。
安息日にイエスは癒された
安息日は人のためにつくられた
1.さて、この病人の癒しですが、イエスは敢えて安息日に癒されました。別に翌日でも良かったのではないでしょうか。「明日、来なさい。癒してあげるから」と言ってもよかったと思います。彼も緊急性を帯びていたわけではないと思います。しかし、この安息日に癒しを行われたということは、安息日の本来の意味を教えておられると考えられます。
2. 3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」 と、安息日の本質を教えておられます。安息日は神が人間のためにつくってくださったのであって、安息日のために人間が造られたのではありません。人間が生き生きとするために造られたのです。
安息日に喜ぶ人と怒る人
1.安息日は神との深い交わりをもち、神の前に出る時です。この病人は 3:5 「手を伸ばしなさい」 というイエスの言葉に従ったのです。彼が言われたとおり 手を伸ばすと、手は元どおりになった。 と、あるのです。どんなに喜んだことでしょう。周りの人々も共に喜んだと思います。
2.昨年私は手術の後に思うように手も足も動かない体験をしましたが、その時、もちろん祈りましたが、頭の中で言葉をもって「右手よもっとこっちに来なさい」と命じると手が動いたのです。同じように足もそうでした。言葉の力の大事さを再確認したときでした。この病人はイエスの言葉に従って言われたとおりにすると癒されて大喜びしたのです。
3.しかし、 3:6 パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。 と、この出来事を喜ばずにイエス殺害に燃えたのです。彼らは安息日律法を守ることにのみ意識がいっていて、片手の萎えた人のことを愛していなかったということです。そして、この出来事を通してイエスに怒りを燃やしているのです。残念です。共に喜んでほしいものです。
安息日にイエスの前に立つ
今も礼拝の中に主は働かれている
1.今の時代にも、礼拝や聖会で癒されたという方が多くあります。しかし、癒されない人ももっとたくさんあります。その違いはどうしてなのかわかりませんが、今日の大事なところは安息日を真に尊ぶということです。それはイエスの前に立つということなのです。
2.当時のユダヤ人にとって安息日は金曜の夕方から土曜日の夕方でした。そこで神礼拝をし、家族と共に安らぐ時をもったようです。現代はイエスの復活された日曜日を記念して日曜日に礼拝しています。神の前に立つのが安息日の大事な点と考えると私たちは毎日が安息日でもあります。いつもイエスが私たちの前におられるので、私達もいつでもイエスの前に立つことができ、イエスから安息をいただけるのです。
安息日としての日曜日
1.日曜礼拝は初代クリスチャン達から引き継がれてきました。イエスの復活を記念して旧約の流れから新しくなった新約聖書の安息日礼拝と言えるかも知れません。この日に共にイエスの前に立つことはやはり私たちの喜びです。
2.今、イエスは私達と共におられるでしょうか? おられますね。私たちはそのイエスの前に立つのです。
★ 神との交わりによって自分が何者であるかをはっきりさせ、主から本当の癒しをいただき、教会をキリストの身体として、生き生きさせていただこうではありませんか。
Posted by shinnakano
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