目が開かれ、そして見えなくなった

礼拝メッセージ

 2025/7/13 礼拝説教
【テーマ】  聖餐式
【説教題】 「目が開かれ、そして見えなくなった」
【聖書箇所】 ルカ24:27-32

24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
24:29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
ルカ24:27-32

○ 今日の聖書箇所はエマオへ向かう途中の弟子が復活のイエスとで会って一緒に食事をした時の話です。

目が開かれ、そして見えなくなった

希望を与える話をする見知らぬ人

イエスとわからない

    1.二人の弟子がイエスと語り合いながら、 目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった のですが、弟子達はずっとそのお方がイエスだとわかりませんでした。でも、この方ともっと話がしたいと思い、一緒に泊まっていただくことにしました。

    2.最初、二人の弟子はイエスの復活を知らないか、信じていなくて暗い顔をしていたのです。「イエス」を知っていても、イエスの本質を知らないと本当の喜びは湧いてこないのでしょう。

希望が湧く話を聞いた

    1.エマオはこの二人の弟子達の自宅だっただろうという説があります。だからその二人は夫婦だったのではないかとも言われています。その家にイエスを招いたところイエスは中に入ってくださいました。彼らは希望のない話をしていましたが、その方は何かしら希望をくれるのです。

    2.彼らはもっとこの方と話がしたかったのです。それはこの方がエルサレムにいたのにイエスの十字架の死を知らないような話し方をされるのに、聖書をよく知っておられて心燃えるような話をしてくださったからです。イエスは死んでしまったと思い込んで沈んでいる二人の心に何かしら希望が湧くような話だったのではないでしょうか。

心眼が開けると

目が開かれた

    1.その食事の席のことです。 イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった のです。大事な点は 彼らの目が開かれ です。それまで、彼らの目は閉じていたことになります。しかし、目を閉じて歩いてきたわけではありません。 24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。 というさえぎられた目は肉眼ではないのです。では、どの目なのでしょうか?

    2.心眼と言いましょうか。盲人の方は確かに肉眼は見えませんが、別の感覚が発達して晴眼者の見えていないものが見えることがあるようです。心の目、魂の目というのでしょうか? 心がどこにあるのか説明できないように心の目はどのようなものか説明できません。しかし、心眼は存在するようです。

イエスが見えなくなった

    1.この心眼が開かれたのは 24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。 という食事の席でした。つまり過越の食事の場面、最後の晩餐の様子を思い起こさせる場面です。その時に 彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 と、目が開かれると、イエスが見えなくなったのです。

    2.不思議な話です。目が開かれた、つまり心眼が開いてイエスだとわかったのですが、肉眼では見えなくなったのです。イエスはどこに行ったのでしょう?

心は燃えていた

    1.イエスが見えなくなりましたが、彼らの心は 24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」 とあるように、イエスが見えなくなったのに心が燃えていたことを思い起こし、その感動が消えないのです。心眼が閉じているときもイエスがそばにおられ、イエスが語られると心が燃えていたのです。

    2.イエスが共におられる現在の私たち。私たちの心は燃えているでしょうか? 今日、イエスがここにおられて私たちにパンとぶどうジュースを用意してくださったのです。

● 今日は聖餐式をします。皆さんの心は燃えていますか? 目には見えないイエスがこの聖餐式に招いてくださり、私たちの心の目でイエスを見ながら信仰の告白と共に主への感謝をするひとときです。

★ ここにイエスが共におられることを信仰をもって喜び、感謝して聖餐式に臨みましょう。