みんなとイエスと共に
2025/9/21 礼拝説教
【テーマ】 聖餐式
【説教題】 「みんなとイエスと共に」
【聖書箇所】 Ⅰコリント11:23-29
【説教者】藤井敬朗牧師
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
Ⅰコリント11:23-29
○ 今日は聖餐式をしますが、今日の聖書箇所にはまた怖い言葉があります。27、29節は もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。 と、 ふさわしくない仕方で みからだをわきまえないで してしまったら裁きを受けるという心配が出てきます。「はたして自分は大丈夫だろうか?」と思う方があるかも知れません。
聖餐式のルーツ
最後の晩餐と、荒野での食事
1.まず、なぜ聖餐式を行うのか、そのルーツを見てみたいと思います。 主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、 と、イエスが十字架にかかる前に最後の晩餐が行われました。そして、 わたしを覚えて、これを行いなさい。 と、この最後の晩餐(過越の食事)でなさったことがルーツの一つです。その時にパンを裂いて わたしのからだです と言われました。パンが十字架で裂かれたイエスの体を表しているのです。そしてぶどう酒に関しては この杯は、わたしの血による新しい契約です と、十字架で流される血をイメージしています。
2.もう一つ考えられるルーツがあります。それは4つの福音書全部に書かれている、「5000人の給食」と言われる話、5つのパンと2匹の魚を増やして大勢の人たちみんながお腹いっぱい食べた話です。イエスが祝福して増やしてくださったパンをみんなでいただいたのです。イエスは ヨハネ 6:48 わたしはいのちのパンです。 と言われました。神の言葉であるイエスはいのちのパンで、それを私達はいただくことをイメージしています。
愛餐
1.イエスが言われた わたしを覚えて、これを行いなさい を「命令」と受け止めて聖餐式を行っていますが、最初から今のような礼典になったわけではありません。当時の人々は食事を持ち寄って教会(家の教会)に集まり、夕方に行われた礼拝後に共に「主の晩餐」として行っていたようです。私達のランチのようなもので、一緒に食事をしていたのです。いわゆる「愛餐会」でした。彼らの食事の主食はパンで、飲み物にぶどう酒がありました。
2.その食事会の中でパンを裂いてみんなに配り、ぶどう酒を共に飲んだのでしょう。聖餐(愛餐)を伴う礼拝はみんなが心を一つにして食事を共にすることにありました。それが長いキリスト教の歴史の中で儀式化されてきたわけです。
コリント教会の問題点
裕福な人が先に食べていた
1.パウロがコリントの教会に対してこの愛餐(聖餐)の話をするのは、コリントの教会の愛餐がイエスの望まれる愛餐(晩餐)になっていないからです。愛餐は 11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。 と、単に食べて飲む集まりでは無く、イエス・キリストを表す大事な信仰告白であり、証だということです。ところがコリント教会ではこの愛餐が一致して行われていなかったのです。
2.その事情を調べると、こんな事がわかりました。コリントは人口60万人の大都市で、その内自由人は20万人、奴隷が40万人いたそうです。ですから、教会には豊かな人もいましたが、多くは貧しい人や奴隷で彼らは日曜日も働かねばなりませんでした。そこで礼拝はみんなの集まれる夕方にしてその中心が「主の晩餐」だったのです。会堂はないので、裕福な人の大きな家(家の教会)に集まったのです。
3.ところが、豊かな人たちは夕方早々に食べ物を持って集まり、自分たちだけで祈って、パンを裂き、ぶどう酒を飲んでいたようです。だいぶ遅れて奴隷や貧しい人たちが来るのですが、その時にはパンもほとんど残っていなくて、先に来た人達がぶどう酒で酔っている有様だったようです。そのため、パウロはこう言っています。 11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。11:21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。11:22 あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。
イエスのいない愛餐会になっていた
1.ですからそのような ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 というわけなのです。「先に食べて満腹になり、酔っ払っている人がいて、後からやって来た貧しい人はお腹を空かせているというのは教会の姿では無い」というわけです。
2.イエスが共におられない単なる食事会になっていたのです。イエス中心に愛餐会をするから礼拝であり、教会です。その根本を失っては意味が無いというわけです。
聖餐でイエスを証しする
自分自身を吟味すること
1.聖餐式の時に子ども達が「どうして、ぼく(わたし)は、たべちゃだめなの?」と思って、大人の人たちが食べるのをうらやましそうに見ている場面があります。聖餐はイエスを自分の救い主と信じている人が受けるので、子どもでもイエスを信じているなら受けて良いのですが、イエスを信じる告白をしっかりしてから受けた方が良いと考え、それで「洗礼を受けた者が聖餐式を受ける」と決めて行ったのでしょう。
2.さらに、 11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです と、パウロは勧めます。そこで、 自分自身を吟味して 「私は受けるにふさわしくない」と嘆いて受けようとしないクリスチャンの方があったりします。しかし、これは間違いです。本来誰もふさわしくない罪人なのです。それをイエスが十字架で血を流してくださったので、私達はこの聖餐に預かれるようになったのです。
信仰告白は宣教のわざ
1.イエスは わたしを覚えて、これを行いなさい と言われました。「思い出として」ということです。当時のクリスチャンはイエスと直に会った人も多かったので、思い出を語り合う「証」ができたと思います。現代の私達はそれが聖霊によってイエスを知っていますので、私達も礼拝で証をするのが良いと思います。
2.聖餐を受けると言うのは、イエスが 主の死を告げ知らせるのです と言われたように、信仰の告白ですから、それはすなわち宣教なのです。私達が礼拝するのは同時に宣教のわざを行うことでもあるのです。そういうことを踏まえて 自分自身を吟味 するのは大切なことだと思います。
★ さあ、自己吟味して、聖餐式に臨みましょう。救われるに値しない者を救って下さったのですから、感謝して受けましょう。もし自覚する罪があるなら、主に告白して悔い改めて受けましょう。さらにイエスの福音が多くの人々に知られるように祈りましょう。
Posted by shinnakano
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