子どもたちよ、遊んでますか!
今年もこの時期が!
新中野キリスト教会では毎年アドベント(待降節と言って、クリスマスイブまでの4週間前の日曜日からはじまります)の前の日曜日にクリスマスの飾り付けをするので、本来は11月22日がその日でした。ところが、22日に特別なプログラムが入りました。「音楽神学校ワーシップ・ジャパン」の出張講習会をしていただくことができたのです。音楽セミナーと礼拝という「とても良い時をいただきました。参加者一同大変良い勉強と、また楽しいひとときをいただいたのです。
そのために、例年より早くクリスマスの飾り付けをすることになり、11月15日にしたのですが、あちこちのお店や街を見ると、やはり私たちより早くしていました。
クリスマスの飾り付けをすると「もう、今年も終わりが近づいた」と一年の早さを感じるのですが、やはり今年もその感覚がよぎっています。
クリスマスのことは少し横に置いておいて、前回の続きから書きたいと思います。子どもが少年期から青年期に向かう時に迎えるのが思春期ですこの思春期と青年期は大人になるためのとても大事な時期だと思っています。その大事な時期の一面を見てみましょう。
子ども扱いしないで
子どもはどんどん発達し、自分でどんどんできるようになります。そこでよく言われる一般的な問題が「過保護」「過干渉」です。子ども自身ができることを先取りして親がどんどんやってしまうのは、親にすれば子どものことを思っての優しさに見えますが、実は子どもの発達の芽を摘んでいることになります。
子どもたちは体験したことをどんどん脳に詰め込んで、それが「あたりまえ」になるように蓄えているところです。その時に親がやり過ぎると、子どもは「親がやってくれる」 → 「親がやるのがあたりまえ」として記憶していくのです。自分でできるようになる方が良いのです。
幼児~小学生低学年の時期は自分でできるようになるために色々体験することが良いのですが、忙しい現代はそういうことも知識として手っ取り早く脳に入れてしまう傾向にあります。子どもはそれが「当たり前」になってしまいますから、時間かけて、嫌なこともして、自分の身につけることを好まなくなります。
つまり、ここまできてしまった子どもの気持ちは「面倒なことはさせないでよ!」「お父さん、お母さんがしてあたりまえでしょ!」となるのです。しかし、深いところの子どもの気持ちは、「自分でしてみたい」「面倒でもやってみたい」なのです。そういう子どもの声を聞くことが大切だと思います。
お手伝い
また、どんどん子どもにやらせようとしますと、例えば「食器の片付け、食器洗い」のお手伝いをさせたとします。食器を割ってしまうことが何度もあると思います。あるいはきれいに洗えなくて、やり直しをしなければならないこともあって、お母さんにとっては二度手間になる事があります。でも、やらせるのです。そして、お手伝いしたことをほめるのです。子どもは親が喜ぶのを見たくて、お手伝いしようとします。ところが、食器を割ったりすると「だから、やらなくていいって言ったでしょ!」とか「これで何度目なの!」とか言ってしまって、子どもの発達を阻害してしまうことがあるのです。
「もっとほめてよ!」という子どもの心の声が聞こえてきませんか?
そして、思春期になれば当然ですが、「子ども扱い」を嫌がります。その準備が幼児期にあるのです。
大丈夫だから!
子どもも青年になると、大人です。親にすればいつまでも子どもなのですが、一人の立派な大人として認めていく必要があります。もし、過干渉が続いていれば、子どもはやる気さえ失っているかも知れません。「もっと任せてよ」という声が聞こえます。子どもは「大丈夫だから」といっているのではないでしょうか。つまり、親が子どもを信頼することです。
「子どもを信じましょう」と言うと、「うちの子に限って」という問題が生じます。悪いことをしても、「うちの子に限ってそんなことはしません」「私はうちの子を信じています」というわけです。大きな勘違いです。
子どもを信じてください。しかし、子どもというものは悪いことをするものだということも信じてください。本当に信じるのは勇気がいります。悪いことをして、それを隠そうとして、あるいは人のせいにしてしまうかも知れません。それを子どもの言うままに「信じる」のは愛ではありません。愛は、そうしてしまった子が、嘘をついた子が、人のせいにした子が、悔いて反省し、謝る事ができると信じることです。
そのためには子どもが「責任」をもって生きることを覚えていくことが必要です。つまり、責任を持たせて育てていくことです。そうすると、自分が何か問題をおこしても、親に上手く処理してもらおうとか、隠し通せるなら隠し通そうとかしなくなり、罪を認めて悔いて、謝罪し、償いをするようになります。
子どもに任せて大丈夫なのです。またそうなるように育てるのが愛ではないでしょうか。
ウソが真実になる前に
子どもも自分が起こしてしまった問題をできることなら隠し通したいという気持ちが働きます。そのためにしばしば嘘もつきます。そしてウソをつき通していく内にそのウソの方が真実のように勘違いして思い込んでしまうようになる事もあるのです。この段階で、親が子どもから話を聞くと、真実と思い込んだウソを本当のように語りますから、親も信じてしまいます。できるだけ早い段階で嘘を見抜くことが必要です。
お母さんの勘はよく当たるものですが、子どもがウソを真実と思い込んで語る段階になると、勘の良いお母さんでも見抜けなくなっているものです。
基本的には子どもを信じて任せるのです。時に思春期・青年期はもう手が届かなくなっていることが多いのですから、信じて任すしかないかも知れません。
ヨセフとマリヤ
この思春期・青年期の子どもたちのことを思う時、私は度々ヨセフをマリヤを考えるのです。彼らは結婚相手として決まっていたのです。幼い内から親によって決められたのでしょうか? そうであったとしても処女マリヤが神様の子どもを身ごもるという話を天使から告げられた時、マリヤは自らの意志でそれを受け入れました。「お母さんに相談します」とかではありません。
マリヤの話を聞いたヨセフは困惑しましたが、彼もまた自らマリヤを信じて妻とすることを拒否しませんでした。彼らは自分でこの難問を解決していったのです。
そして、イエス様を産み育てるのです。こういう、神様を信じて、自ら決定できる自立した若い夫婦を神様は求めておられたのかも知れません。
決して彼らは立派な家庭に育ったのではありませんし、学歴もありません。彼らには神を信じる信仰と、互いに愛し合う尊い「愛」があっただけでしょう。
そこに生まれたイエス様も特別に有名な学校に行ったわけではありません。自ら聖書を学ばれたのです。
遊んだイエス様
イエス様の少年時代のことは聖書にも書かれていませんが、こういう家庭に生まれ育ったことを思うと、イエス様は子どもの時、自然の中でよく遊ばれたのだと思います。また、大工であったお父さんのお手伝いもされたのだと思います。
最近、新たに学者達が言っていることに、現代の子どもたちの脳の前頭前野の発達が悪いということです。それは幼い内から机での勉強に駆り立てられ、遊びといえばゲーム機やスマホでのゲームで脳が発達しなくなってきているかららしいのです。知識は蓄えたとしても、それを正しく扱う「知恵」が身についていないのです。
イエス様は学校に行かなかったとしても、日常の生活と両親や周りのお年寄りから聞く神様の話、そして自然の中で体を使って遊んだために「知恵」がついたのです。
その知恵は聖書の言葉を正しく理解し、実行する力ともなったのです。
イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。
ルカの福音書 2:52