母の祈りに感謝!
暑い日のこと
8月31日は暑い日でした。そんな中、新中野キリスト教会で母の告別式を行いました。
母は8月29日(水)に病院で亡くなりました。いきさつはこうです。
認知症が進み出した母は一年半ほど前にグループホームに入所させていただきました。母は「ここはいい人ばかりだよ」と喜んでグループホームで生活し、乱れていた食生活も整ってきました。
自力でほとんど歩けなくなった母、骨粗しょう症のため「転んではいけない」と医師に言われていましたが、8月11日(祝・土)に転んでしまいました。そこで大腿骨頸部骨折をし、緊急入院。しかし、この日はお盆の時期の祝日で土曜日。病院はなかなか見つかりませんでしたが、やっと探してもらって入院し、手術をする方向でした。が、血液に問題があり手術できないとなり、13日激しい雷雨の中、転院することになりました。私たち夫婦も急いでその病院へと向かいました。
この病院では最初「手術可能」ということでホッとしたのですが、数日後「手術不可能」という連絡を受けました。説明を聞くと、今まで全くわからなかった「肝硬変」であることがわかったのです。それと末期の腎不全で手術に耐えられないということでした。
楽しめる
グループホームでは毎日美味しく食事をしていたのに、入院すると全く食べられなくなりました。医師からは「この体の状態で食事が採れていたのですか? 普通この状態では食べられないですけどね」と言われました。生きていたのが不思議です。人は楽しいと生きる力が出てくるのではないでしょうか。
私は子どもの教育に関しても子どもが楽しいと思えることが大事だと言ってきました。楽しいと勉強も効率が上がります。教師時代、陸上部を受け持ちましたが、実はとても楽しいクラブになりました。すると陸上の成績も上がり、高槻市で1位を取るくらいになりました。そればかりか、生徒達の勉強の成績も上がったのです。
教会に行った
母は幼い頃に教会学校に行き、クリスチャンになったそうです。母の父(私の祖父)は母が幼い時に亡くなっており、私は写真でしか見たことがありません。母の母(私の祖母)は若い頃からリウマチで寝付いておりました。主人を失って二人の子(母と母の兄)を育てていくのに大変辛い思いをしたようです。伯父は中学生の時から働いて祖母と母を支えたそうです。この苦しさの中で祖母は母の導きで教会に行き、クリスチャンになりました。伯父は逆にこのような苦しい現実を味わい神を信じる気にならなかったみたいです(しかし、後にクリスチャンになりました)。
月日が流れ、戦争も終わり、父と結婚する辺りのことはほとんど聞いたことが無く、幼稚園の先生をしていたという話だけ聞いたことがあります。父を紹介されて結婚した時、母は教会に行っていなかったらしいです。
嫁として、母として
結婚後、舅、姑、親戚づきあい、そして私が生まれて子育て。母は大変だったようです。無性に教会に行きたくなって藤井家にお願いしますが、「藤井の家はキリスト教はあり得ない」と一喝。しかし、何度も願ったため、日曜日の10時半から12時までだけ教会に行くことを許されました。私が小学生の頃、母は日曜毎に走って教会に行くのを見たものです。
小学3年生の頃私も行ってみましたが、女の子ばかりで私はすぐにやめてしまいました。中学・高校の思春期・反抗期には母に「神なんているもんか!」「神がいるならなんで戦争なんかあるんや」とか言って母にたてつきました。
しかし、高校三年生、受験前に私は失明しかけました。大学病院に紹介状を書いてもらい出かけるのですが、その前に母は私の目に手を置いて祈りました。そして、検査の結果、視神経は生き返っていました。これがきっかけとなって私はクリスチャンになり、教会に行き始めました。藤井の長男がキリスト教になるのはあり得ないらしく、父の怒りはすごかったです。しかし、もっとすごかったのは弟がクリスチャンになった時です。弟を溺愛していた父の怒りは激しく、弟を勘当してしまいました。長いこと弟は家に戻りませんでした。
父と母の危ない様子にもうこの夫婦はダメかと思いました。が、母が祈りに祈り、忍耐し持ちこたえたようです。
その後、教会の人達の温かい声掛けなどで父は教会に対しては心を開きました。私が牧師になると決めた時はまた怒りで殺されるかと思いましたが、ここも母の祈りでしょう、なんとか乗り越えました。
牧師になり、結婚して子どもが出来ると父は孫がかわいくてかなり優しくなりました。
祈りの人
母は私を生んで教会に行き出してから、誰よりも早く起きて、聖書を読み、祈り、それから朝食の支度をしていました。子どもの私たちはいつも目が覚めると朝食ができていました。母が聖書を読み、祈っていたのはずっと後になって知ったことでした。
母は私たち兄弟のことを祈ってくれていました。この祈りが私たちを支えてくれた気がします。今、地上でのこの母の祈りが消えたことは大きな力を失った気がしてなりません。
母は祈りの人でした。「祈りの人」というのは、単に多くの時間祈った人というのではなく、神様と親しく会話し、神様を信じて疑わず祈る人かと思います。
そして、母はよく笑う人でした。ただ、私が子どもの頃の母は厳しい面が結構強く、年齢が上がるにつれてよく笑う人になったと思います。晩年の母はよく笑いました。それは喜んでいたからだと思います。父が亡くなる四日前に祈りに祈った父の救い(クリスチャンになること)が実現したのです。父はその日、私にも「昨日、イエスさんにおうた(会った)」と言いました。そして、今までの悪態が消え、私に「すまんのう」と言い、母には「ありがとう」と言ったのです。奇跡です!
ぜいたく無しに
父が亡くなって、体の悪い母は一人で高槻(大阪府)で暮らしますが、遂に一人暮らしは無理と判断して、東京に呼びました。そして高槻の家は消えました(元々借地に建てていたので)。80歳を越えて東京へ引っ越すのは大変だと思いましたが、母は「感謝、感謝」と笑顔で毎日暮らす人でした。今度は認知症も入って、グループホームに入所。そこでも、「みんないい人で、楽しいよ」と、やはり「感謝、感謝」で笑顔でした。
母が亡くなって振り返ると、母はぜいたくなことは何一つさせてもらえず、旅行すらほとんどしたことも無く、有名レストランで食事なんていうこともしたことのない人でした。しかし、「感謝、感謝」で笑っているのは、イエス様のお陰です。
喜べ、祈れ、感謝せよ
思い起こすと、聖書にある、
いつも喜んでいなさい。
第一テサロニケ 5:16−18
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
の通りに生きた人だなあと再確認するのです。
この聖書の言葉は、私自身が望んでいる生き方です。いつも喜んでいることができたらいいですね。喜んでいる親を見ることができる子どもも幸いだと思います。
そして、どんな時も絶えず祈ることができたらと思います。私もあらゆる時に子ども達のために祈っています。うちの子達のことはもちろんですが、子どもセンターの子ども達、教会の子ども達のために祈っています。祈ることが嬉しいのです。それは祈る時にすでに神様がこれらの子ども達を愛してくださっていることが感じられるからです。祈ると喜びが湧きます。
そして、全てのことを感謝したいです。感謝できるから感謝するのではなく、すべて神様が最善をなしてくださると信じるので感謝します。「ありがとうございます」と神様に祈ると喜びが湧いてくるのです。不思議ですが、イエス様を私の神と信じてから長くこの感覚は続き、嬉しいです。
教師時代、毎日、クラスの生徒達のために、陸上部の生徒達のために、生徒会役員の生徒達のために祈ってきたことが懐かしく思い出されました。