イエスには信仰が見える

礼拝メッセージ

 2024/9/29 礼拝説教
【テーマ】  罪赦される信仰
【説教題】 「イエスには信仰が見える」
【聖書箇所】 マルコ2:1-12
【説教者】藤井敬朗師

【新改訳2017】
2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
2:3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
2:4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
2:6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。

マルコ2:1-12

○ 今日のテキストで 2:4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。 は「大変な迷惑行為だなあ」と思った人は多いのではないでしょうか。本当に屋根をはがしたかも知れませんが、当時の家の構造を考えると、玄関の入り口と屋上からの入り口があったそうです。その屋上の入り口には家の中からはしごで上がったようですが、人がいっぱいだったので、はしごは取り外してあったかと思われます。その屋上の入り口を開けて吊り下ろしたとも考えられます。

イエスには信仰が見える

Ⅰ.イエスに会いに来た人々

  A.イエスを見たい人々

    1.この舞台となるのは、かつてイエスが癒しを行われたシモンの家かも知れません。イエスが戻ってこられたことを知って人々が集まってきたのです。 2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。 というほどにたくさんの人が集まりました。

    2.しっかりイエスの話を聞きたいという人々。イエスの行う奇跡を見たいと思ってやって来た人々。こういう人々はできるだけイエスの近くに寄ろうとしたでしょう。とても近くにいた人たちです。

  B.イエスを嫌う律法学者

    1.次にイエスのところにやって来たのは律法学者でしょう。人々が集まってイエスの話を聞こうとしているので、イエスの話から問題点を探し出そうと思ってやって来た人たちです。

    2.彼らは地位のある人たちなので、ラビと呼ばれるイエスのそばにいたかも知れません。しかし、空間的距離は近くても、彼らの心はイエスから遠く離れていたと言えないでしょうか?

  C.中風の人と友人

    1.さらに最後にやって来たのは、イエスのところに行きたくても自分で行けない中風の人でした。その人は4人の友人に連れて来られました。

    2. 戸口のところまで隙間もないほど の人々ですから、家の中に入ることができません。一番遠い距離にあったでしょう。しかし、4人の友人のやったことは屋上から中風の人を吊り下ろすということでした。その結果、イエスの一番近くに来たことになります。

Ⅱ.イエスには心が見える

  A.彼らの信仰を見て

    1. 2:5 イエスは彼らの信仰を見て とあります。「彼ら」ですから、連れてきた4人、そして中風の人も入れて5人と思います。この人達にどのような信仰があったのでしょうか? 私たちは信仰というとどのように神様を信じているかを言葉で聞かないとわかりにくいものです。しかし、イエスは彼らを見ただけで信仰があるとわかったのです。私たちもイエスに心の中まで見られています。信仰があるのか無いのか全部見抜かれています。

    2.4人の友人は病人を連れて行ったものの入ることができないために諦めて帰ったでしょうか? 何が何でもこの病人をイエスの前に連れて行くと決めて、この人を屋上から吊り降ろしました。おかげで中風の人はイエスの前に来ることができました。こうした行動は信仰から出たと考えられます。

  B.ご自分の霊で見抜いて

    1.一方、律法学者たちは 2:6 ・・・心の中であれこれと考えた。2:7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」 と、イエスを疑っていました。しかし、当時の律法学者達からすれば普通の考えかも知れません。

    2. 2:8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。 と、イエスは律法学者たちの心の中も見抜いておられます。つまり彼らに信仰が無いのを見られたわけです。

Ⅲ.誰が救われるのか?

  A.あなたの罪は赦された

    1. 2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 と、イエスは中風の人の罪を赦すことができました。それはイエスが神だからできることです。そして、罪が赦された証拠として中風を癒されたのです。どちらも神だからこそできることでした。

    2. 2:9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 とあります。もちろん罪を赦すことができるのは神だけですから、簡単なはずはありません。ただ、人が口先だけの「罪は赦された」は言えます。だからと言って中風を癒せるかというと、これは当時の医者でも無理だったのです。中風は現代の脳溢血のようなもので、当時は不治の病とされていました。それを癒せるのも神だけです。それをイエスが癒されたので、イエスには罪を赦す権威がある、イエスは神である、という証拠となるのです。

  B.信仰だけが罪から救う

    1. 中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた ので、中風の人は罪赦されました。そして、 イエスは彼らの信仰を見て とありますから、友人4人も信仰を持っていました。彼らも罪赦されたのではないでしょうか? では、どんな信仰なのかというと、私たち人間にはわかりません。イエスは神なので彼らの信仰がわかるのです。

    2.私たちの信仰も他の人にはわからないでしょう。私たちは「信仰告白」をすること、そしてその証拠としての「洗礼」を受けるというようなことが無ければわからないものです。しかし、神(イエス)には私たちが何と言おうが何をしようが、信仰があるかどうかがわかるのです。私たちの信仰、不信仰もイエスは見ておられるのです。

★ あなたの信仰もイエスに見られています。それはあなたを裁こうとしてではなく、救おうとしてです。そのイエスの目は愛の目です。