
境界線
熊の被害
最近、熊が人間の住む領域にかなり入り込んできたことに憂慮する自治体が増えています。何しろ何人もの人が熊の被害に遭っていますし、学校にまで熊が入り込んできました。
かつては山の中だけで生活していた熊が食糧不足等の問題から人間界に入り込んで来たようなのです。
ずっと自然に普通に守られていた動物と人間との「境界線」が破られました。熊が「境界線」を越えてきたのです。人間界を脅かしたので、何頭もの熊が殺されました。熊にすれば別に境界線を犯したつもりはないのです。そのため、熊を殺すことに反対するグループもあります。
このようにして、暑すぎて長すぎる夏を持つようになったことが日本の新たな問題となりました。
今までに無いことがここのところ次々起こっていて人々の不安は増大しています。もちろん、子ども達の不安もです。
罪
聖書にこんな言葉があります。「あなたがたの神、【主】が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」(申命記5:33) と、神様は人が幸せに生きるために大事な命令をくださいました。
ところが、それを人は守りませんでした。いわゆる、善悪の境界線を十分知らずに越えてしまったのです。
その最初は有名なアダムとイブ(エバ)です。人間が彼ら二人だけの時に、神様はエデンの園で二人を何不自由なく暮らさせ、動物たちとも仲良く暮らしていたのです。
ところが、二人はたった一つの決まり「この木からだけは取って食べてはならない」という神様の言葉を破り(越えて)食べてしまいました。それが「罪」です。それによって人類は神様と離れた生き方をすることになってしまいました。それで全人類に罪は遺伝的(?)に引き継がれることになったので、この人間が本質的に持つ罪を「原罪」と呼びます。
罪人となってしまった人間ではありますが、神様は人間を愛しておられるので、その後も神様は人が幸せに暮らせるようにルールをくださいました。その基本は「十戒」です。これを守れば人は幸せに生きられるとしてくださったルールです。
そして、人が造ってきたルールも本来は人が安心して生活できるように造られたものです。
自転車のルール
最近では自転車の交通違反がかなり問題視されています。そこで、ルール見直しが進められ、罰金刑などが科せられるようになっています。
以前から自転車でも飲酒運転はダメでした。もちろん信号無視、二人乗り、傘を差して乗る等々も違反です。ところが多くの人がそれを知らずか破っていました。
私は青信号になったので横断歩道を渡り始めたら、信号無視して猛スピードで走ってきた自転車にはねられそうになったことが三度あります。お巡りさんがいたら、その人は捕まっていたはずです。
最近、そうした取り締まりが厳しくなり、あちこちで自転車が止められて注意を受けているところを見るようになりました。ニュースでもやっています。
それを見ていると捕まった人は「知らなかった」とか「知っていたけどそんなに重大とは思ってなかった」などと、全く知らない人はそう多くはありませんでした。
ただ、今まで自転車のことは自動車のように違反の取り締まりがなかったためか、知っていても犯罪にならないと思い込んでしまったわけです。最近になって一気に取り締まりが強化されると驚く人がいっぱいです。
また、新たに作られた「自転車は車道を走行すること」は自動車側にとっても大変で事故も多発したのは、道路の整備などが十分で無いところから来ていると思います。
最近では、スマホを見ながらの運転も「ながら運転」で罰金対象になりました。
法律、規則は人々が安全に幸せに暮らせるようにつくられたもので、その基本は聖書だと思います。
フェンスの効用
こんな記事を見ました。
景観設計のチームが幼稚園の園庭をフェンスで囲む効果について調べました。園児たちはフェンスがないと園舎や先生の近くにとどまりがちでしたが、フェンスがあると園庭全体に広がって遊びました。研究者は、境界の設置は解放感を強める効果があると結論づけました。これは私たちの直観に反します。私たちは、境界線は楽しみを制限すると言いがちです。しかし、フェンスは自由を与えたのです。
神が定められた境界線も私たちに自由をくれます。イスラエルに十戒を与える際、神は約束されました。この神聖な十戒の境界の内で暮らすことで、彼らは「幸いな」人生を歩むことができると。「あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる」(申5:33)と言われたのです。この「幸い」の概念には、質の高い人生、良い結果を伴う人生が含まれます。
イエスは十字架上で死に、律法を成就されました。そのお方が「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:31-32)と宣言されました。神はまさに、私たちの益のために境界線を定められたのです。「フェンス」は、私たちを解放して、神が造られた人生を神と共に存分に味わうことを可能にします。
神の命令はどのようにあなたを解放してくれますか。どうすれば、その境界線を進んで受け入れ、それによる自由を享受できると思いますか。
神よ、私の利益のために賢明な境界線を設けてくださり感謝します。
デイリーブレッドより 2025年9月5日 神が下さる自由
神が人間の幸せのために「境界線」を決めてくださったのですが、それを乗り越えてしまったがために色々な不幸を味わうことになってしまいました。
熊の場合は「境界線」を知らないがために入り込んで射殺されたりしています。しかし、人間は「境界線」の教えを受けているので、「知らなかった」ではすまされないのです。とは言え、神様が与えた決まり、境界線を知らない人はいるのかもしれません。
子どものために
赤ちゃんが少し大きくなって動き回る、歩き回るようになると安全のためにベビーサークルを用意したり、階段から落ちないように柵を設けたりします。頭では理解できないので、実際的に越えられない柵を設けているわけです。その中にいれば子どもは安全だということです。
また、少し大きくなれば言葉で「境界線」を伝えます。「道に飛び出さない!」「横断歩道を渡るのよ」「人を叩いてはいけません」「ウソをついてはいけないよ」等々
そして、遊ぶときにも「この芝生から出てはダメよ」とか、「塀の中だけで遊んでね」などと伝えます。そうすると安全で、親子共に安心していられます。
親と子の境界線
子どもの人生はまさにその子のものです。幸せに過ごして欲しいです。
旧約聖書の伝道者の書にはこんな言葉があります。
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。( 12:1)
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(12:13)
子どもは親を通して神を知ると言われています。幼子にとっては親は神的存在です。親によって生きも死にもしてしまいます。そして親から教えられることが全てです。
しかし、成長していくに連れて他の大人、保育園、幼稚園、学校の先生方や色々な大人や友人から色々なことを教えられます。また、本やネット、テレビ、ラジオ等々によって様々な情報が入って来ます。子どもの脳がそれらのものを取り込んで自分で感じ、考え、判断、決断していくようになります。
そういう時に果たして全世界をお造りになった神や神の言葉をどれくらい知っているかが問われるのではないでしょうか?
親を離れていくようになるのですから、親と子どもの境界線がしっかりできなくてはなりません。親子の癒着は問題です。
幼い内に聖書を
信仰を持つかどうかは本人の自由ですが、神を知らないままでいることの恐さを感じます。
かつてあるキリスト教を名乗る宗教団体に入り込んでしまった多くの青年が人生を狂わせてしまったために、大変な思いをして親御さん達が救出されているのを見てきました。救出された青年達が正しく聖書を学び、今までの間違いに気付き、正しく歩み出し、社会復帰するのを見てホッとしたのです。もっと前に聖書を正しく知っていればこんなことはなかったのではないかと思ったのです。