想像力
戦争を知らない子ども達
また朝日新聞のコラムですが、
折々のことば:3471 鷲田清一 2025年9月2日
体験しなければ、想像することさえできないのだとしたら……作家、芸術家、文化の敗北ということになるでしょう。 (小林エリカ)
◇
戦争体験者が鬼籍に入りつつある。が、体験がないと想像もできないとしたらそれこそ絶望的だと、作家・アーティストは言う。聴いた体験だって想像するほかない。平和は「少しでも手を緩めると、たちまち失われてしまう」からこそ想像し続けるのだと。Re:Ronの特集「考えてみよう、戦争のこと」への寄稿(本紙8月26日夕刊)から。
というのがありました。ふと、高校生の時に流行った「戦争を知らない子ども達」を思い出しました。こんな歌詞です。
戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子どもたちさ
この歌の深い意味も知らないままにみんなでよく歌っていました。
戦争体験者の話
この夏も戦争体験者の話がテレビやラジオに流れました。特集番組、ドラマ・映画もこの時期には多く出てきます。
私は戦前・戦中・戦後を通じてのドラマで、戦前と戦後の部分は楽しめるのに、急に戦中の恐ろしい、辛い部分を観るのが嫌でした。人々が幸せな生活を送っているのに、急に雰囲気が悪くなり、心優しい人が苦しめられ、痛めつけられ、軍国主義に洗脳されていって、悲しみが増えるのを観るのが辛いのです。
ですが、その戦中を必死で生き抜いた人たち、心優しさを失わなかった人たちを見ることは逆に励みになります。今回もいくつかのドラマなどを観て辛くなりましたが、大変考えさせられました。そして、辛い中でも心優しい方々の存在していたことに嬉しくもなりました。
戦争を否定する力
そこで、最初のコラムですが、戦争は体験したくないです。しかし、世の中はどんどんきな臭くなってきており、子ども達の時代に戦争が無いと言い切れるのか心配にさえなります。
戦争を体験しないで、戦争を否定するのは難しいですが、そこは想像力がものをいうのだと思います。
ウクライナとロシアなどの戦争を見て、心痛みながら、戦争の終結を祈っています。どれほど多くの方が集結を願い、神に祈ってきたかと思うのですが、なかなか終わろうとしません。これが現実なのです。祈る人が少ないのか? 戦争をしたい人が多すぎるのか? 何度か集結しそうなニュースを聞いて期待して祈り続けています。
戦争体験者の話を聞いたり、本を読んだり、ドラマや映画を観たりしていくらかの知識を得ることができますが、もちろん体験者のようにはわかりません。
ですが、戦争は誰も体験してほしくないです。そのためには戦争がどれほど悲惨なものなのかを想像し、戦争は無くしたいという思いをしっかり持つことが大事ではないでしょうか。
想像力が無いと
そのための想像力はどのようにして生まれるのでしょうか?
「他の人はどう思っているのだろう?」とか「こう言ったら、あの人はどう思うだろうか?」など他者を思っての言動はある種の想像力が必要です。
実際、想像力の無い人は主観が強く自分勝手だそうです。他の人がどう感じるのかということが考えられず、視野が狭いのです。また、自分に関心の無い話はスルーしてしまいやすいです。そして、自分の知識や経験を中心に判断したり、意志決定してしまいがちです。応用力に欠けると言われます。そのために今までに経験したことが無いことが起こるとパニックになったり、思考停止状態になります。
想像力のワクチン
想像力とは「現実には存在しないことやまだ経験していないことを頭の中で思い描く能力」ですが、「遠くにあるものを近くに感じるための能力」という言い方もあります。
この想像力は幼い時からの体験などが元になっていると思われます。しかし、全てが体験されないとわからないとすると、「戦争」を体験していない私達は、戦争の悲惨さがわからないことになります。
しかし、インフルエンザワクチンのようにワクチン接種をすることでインフルエンザにかかりにくかったり、かかっても軽くて済むように、幼い時からの体験は大人になってからの大きな問題に関しても想像できる力がついてくると考えます。子どもの時の色々な体験が「想像力ワクチン」で、それを元にして体験したことの無いことも想像できるようになると思います。
いじめ
子どものいじめはなかなか無くすことができません。それどころかいじめの陰湿化悪質化が心配される時代です。これだけ長きにわたって「いじめをしてはいけません」と言われ続けても無くなりません。
「いじめられる体験をしないと、いじめをしてはいけないことがわからないのだ」と言う方もあります。が、そのためにいじめを体験させるのは大問題だと思います。いじめを体験しないで、いじめを撲滅するようにしたいのですが、どうすればいいのでしょうね。
教師の盗撮問題
教師の盗撮問題も無くならないのにはショックです。「どうして教師がそんなことをするのだろう?」と思いました。「これだけニュースで出ればもうなくなるだろう」とさえ思っていましたが、次々出てくるではありませんか。しかもグループ化されているのですから驚きです。
そういうことをすればどうなるのか、先生方は想像できないのでしょうか? それとも想像できるけれどやらないという自制心が欠如しているのでしょうか?
自制心を求める
自制心の欠如と書きましたが、これはとても大事なことだと思っています。
聖書にこんな言葉があります。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)
「御霊の実」とは神様の性質ですので、神の子イエス・キリストが身に着けておられたものと言うことができます。これらの性質を私達も持つことができたら何とすばらしいでしょう。この中に「自制」があります。
自分を制することはとても難しいことかも知れません。だから神に頼るのです。イエス・キリストは自制心をお持ちであり、また、私達にもそれをもってほしいと思っておられます。ですから、イエス・キリストの名によって祈り願ってよいのです。
子ども達にも自制心を
子ども達がいじめをしない子どもになってほしいと願うことは大事なことでしょう。「いじめはいけないことだ!」という想像力を身に着けてほしいわけです。
そう願う大人が、あの教師の盗撮問題にあるように自制心を失って、あのようなことをしていては何にもなりません。
盗撮問題を起こした教師を問題視するのは間違いないことですが、果たして私達は盗撮はしなくても、その他のことで自制できているのでしょうか? 人の問題や欠点は見えやすいのかも知れません。しかし、自分のこととなると見えていないことが多いものです。
子ども達に自制心を植え付けるのは大人の仕事なのかも知れませんが、子ども達は大人を見て育つのです。私達の自制心を子どもに見せることで子ども達も自制心を持つのです。
ですが、私達も不完全ですので、子ども達自ら、イエス・キリストから学んでほしいのです。
聖書を読むことで
私達は自分が見えていないことが多いのですが、聖書はそういう私達の鏡のような書物です。聖書によって自分が見えてきます。しかし、ただ見えるだけでは無くて、そこから自分はどうあるべきかも考えさせられます。まさにそこに想像力が働くのです。つまり、聖書を読むことで、してはならない悪・罪から離れ、しなければならない愛の行動をとる勇気や力が湧いてくるのです。
これこそ子ども達に必要ではないでしょうか?
子ども達に本を読むことを推奨されるのはそこから正しい想像力を働かせる力を身につけるためではないでしょうか?
小説などの本には自分が体験できないことが書かれているものですが、それを読むことで想像力がつき、自分のあり方が考えられるようになるのです。
とすれば、小説ではない、事実が書かれた「聖書」はどれほど大事な書物でしょう。全世界で読まれている「聖書」は人を変える力をもっているからこそ読み継がれてきましたし、そこに書かれているイエス・キリストは今も見えない神として私達に働きかけてくださっています。