神はあなたを待っておられる
探す神、待つ神、赦す神

神はあなたを待っておられる

礼拝メッセージ

説教者:藤井師
 2024/3/3 礼拝説教
【テーマ】  探す神、待つ神、赦す神
【説教題】 「神はあなたを待っておられる」
【聖書箇所】 ルカ15:3-24

15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
15:8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
15:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

ルカ15:3-24

○ 皆さんは大切なものを失った経験はありますか? 必死で探しますね。ある子どもがショッピングセンターで迷子になって受付に行ったそうです。そこで、言ったことは「ママとパパが迷子になったんです」だったそうです。放送をかけてもらってすぐに両親が来たそうです。神様も私達を探しておられるという話が今日のところに出てきます。

神はあなたを待っておられる

探す神

見つかるまで必死で探す

    1.最初は百匹の羊のうち一匹がいなくなったというたとえ話です。羊飼いはその一匹を探し回ります。二つ目のたとえ話は十枚の銀貨のうち一枚がなくなった話です。女の人はその一枚が見つかるまで探しました。

    2.イエスが語られたこの二つのたとえ話は、神は失われた人を探しておられるということを教えているのです。しかも、「一匹くらい、一枚くらいいいじゃないか」というような気持ちではなく、「どうしても見つけ出さないとだめなんだ!」という真剣さです。

    3.私達は失われた人に対して、イエスのような思いを持って探しているでしょうか。

価値があるから探す

    1.もし価値の無いものを失ったとしたら真剣に探すでしょうか?それが捨てるべきものであったのなら、なおさら探さないのではないでしょうか。ということはいなくなった羊もどこかに行った銀貨もとても価値があるということです。

    2.私達は神に探していただいています。それは神にとって私達は価値がある存在だからです。人間界では価値があるのは能力があるとか、高い金額に換算できるとかで価値を決めやすいです。しかし、神の見方はそうではありません。 イザ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 と言われているとおりです。

待つ神

待つ神は弟子を宣教に押し出す

    1.三番目のたとえ話は二人の息子のうち、一人の息子がいなくなったという話です。三つのたとえ話に共通しているのはあるべきところからいなくなった(無くなった)ということです。

    2.ところが、この三番目の有名な放蕩息子のたとえ話は「探す」のではなく、「待つ」という観点で語られています。確かに羊も銀貨も待っていたのでは見つかりませんから探すのです。しかし、放蕩息子の場合は息子が帰ってくるのを信じて父親が待っているという話です。

    3.人間は羊や銀貨とは違いますから、神の元に帰ろうと思えば帰れるのです。ただその神が良くわからないから帰りようがないのが異邦人です。そこで、待つ神は弟子達に世界宣教を命じられたのです。

イエスは待っておられる

    1.イエスはペテロにこう言われました。 ルカ 22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 と。ここもイエスがペテロを待っておられることを示しています。イエスを「知らない」と三度も言ってしまったペテロに対してです。弟子として失格だったはずなのに、イエスは彼を受け入れるのです。

    2.私達もイエスに愛されていますねえ。「弟子としてふさわしくないのではないか」と思うどころか、イエスに対して酷いことを言ったり、不信仰になったりして離れていってもイエスはずっと待っていてくださるのです。

赦す神

放蕩息子が赦される

    1.この三つのたとえ話の羊も銀貨も「悔い改め」を必要とはしないものですが、たとえ話として「悔い改めるなら救われる」と教えています。もちろん、放蕩息子のたとえ話は人間ですから悔い改めが当然で、それによって父親が赦すことを伝え、神は悔い改める者を赦されることを伝えています。

    2.弟息子(放蕩息子)はとんでもないことをしてしまったのです。生きている父親の身代を分けてもらうこと自体とんでもないことです。そして、家を飛び出して放蕩三昧お金を使い果たしてしまうのですから。挙げ句の果てはユダヤ人にとって汚れた動物とされている豚の世話をし、その豚のエサにさえ食らいつきそうになるのです。もうユダヤ人として「終わった」弟息子だったのです。

    3.しかし、父親は彼が帰ってくるのをずっと待ちわび、帰ってくる弟息子をいち早く見つけ出して走り寄り、臭くて汚い息子を抱きしめるのです。ましてや本来雇い人にもしてもらえない状態なのに、元の息子のように迎え入れ、喜んで大宴会を催すのです。一人の罪人が悔い改めると天で喜びが起こるというのはこういうことです。

あなたも赦される

    1.では、私達(あなた)はどうですか? 今、あなたはあなたの造り主である神の元にいますか? この説教を聴いている時点であなたは見つけ出してもらった人です。あなた自身が自らの意志で神に帰ってくるなら神は赦してくださるのです。

    2.見つけ出された羊が安心して羊飼いの腕に抱かれるように安心してください。見つけられた銀貨を巡ってみんなが喜んだようにあなたは天使にもクリスチャン達にも喜ばれています。

★ 神はあなたのことをあなた以上に大切に思い、ご自分の元から離れていることをとても悲しく思っておられます。この父なる神に立ち返るなら神は罪を赦し、天国の一員、神の子として受け入れてくださるのです。立ち返ってくるのを神は待っておられます。