子育ての会
楽しい「子育ての会」
9月の子育ての会を行って「本当に良かったなあ」としみじみ思いました。
私は大阪で子育ての会、子ども相談を行っていた時は、教会の子育ての会には20名ほど、それ以外の場所4カ所でも行っており、合同のクリスマス会を開くと親子で100名くらいの会になったものです。
子育て相談も絶えること無く、不登校、お子さんの性格のこと、虐待、障害、いじめ、本当に色々な相談を受けてきました。
東京に来て10年目ですが、「子育ての会」の参加者はそんなに増えていません。私のやり方に問題があるのかもしれませんが、細々とでも続けていこうと決めて行ってきました。
この「子育て通信」(東京に来てから新たに発行)が東京に来てから100号になっています。自分でもビックリしています。同じようなことを書いていて変わり栄えしないとはとは思いますが、それでも、こんな私がここまで継続できたことだけでもすごいと思っています。
そんな中でこの前9月の子育ての会に5名のお母さん方がお出でくださり、雑談めいた話から始まったのですが、とても濃い内容に発展し、11時半までの会が12時を過ぎても終わりませんでした。本当に楽しかったです(楽しいと言うとひんしゅくを買うかも知れません。真剣で真面目だったので)。
内容はとても個人的な話がいくつもありましたので、ここに書くことはできませんが、素直に自分の家庭の問題を出して、話してくださったお陰で、上辺の話では無く、本質に近い話ができたのだと思います。そのために参加した誰にとっても考えさせられる良い話し合いができたのだと思います。
「子育ての会」を続けていて良かったとつくづく思った日でした。
お子さんに関する個人的な相談事は大阪の時ほどはありませんが、それでも何十件もの相談をいただいたと思います。
最近ではAD・HDやアスペルガー症候群と言っても多くの方がその言葉を知っておられます。が、まだその言葉が知られていない時に、その可能性があることを考えて何度も相談したり、学校とも連携したりしたこともありました。授業参観も懐かしく思い出します。数少ない文献を探し求めた時期でもありました。
子育ての難しい時代
「子育ての難しい時代」と言われるようになって久しい気がしますが、最近また「子育ての難しい時代になった」という話を聞きました。それは最初に「子育てが難しくなった」と言われた時の子どもが大人になり、親になって、その子ども達を育てる時期に入ったためらしいのです。
この時期は、前とはまた違った難しさが起こっているというのです。第二世代の難しさらしいのです。ある先生は「子育ての混乱期」とも呼んでおられます。最初の難しかった時は、それでもまだパターン化ができて、方法論も考えられたらしいのです。ところが、最近では何でもありで、価値観も違い、方法論が役に立たない時代になっています。つまり、個々の子どもの問題を個々に扱うしかない時代になっているというのです。
とは言え、原因追及と対策は研究し続けられています。それが無くては私も困るわけです。でも、実際、難しいケースが増えたと思います。また、なかなか解決しない、時間がかかりすぎるというケースが増えているように思えます。
子どもの問題だけで無く、家族全体の問題、大抵はその問題を探れば親の世代の問題を見出さなくてはならなくなりますし、さらにその上の世代をも調べなくてはならないこともあります。本当に複雑化したと思います。
社会の急激な変化による
この子育ての大変さは社会の変化に大変大きな影響を受けているわけです。200年以上かけて、子育ての変化、子ども社会の変化があれば良かったのですが、ここ数十年の間に日本社会は大きく変化してしまったのです。そこが一番の問題だと思うのです。
過去の常識が通じなくなり、過去の子育てで間に合わなくなってしまっているのです。おばあちゃんやお姑さんが、「こうするのよ」「そんなことではダメ」ということが通用しなくなっているのですが、その世代の方々には理解していただけません(しかし、諸事情を勉強して、理解に勤めてくださる方々もいらっしゃいます)。
精神的な問題
子どもの精神病に関しても最近は研究が進んでいます。反対にかつては子どもの精神病そのものがほとんど無かったのです。かつて「喘息で死ぬことは無い」と言われていたのが、「喘息で死ぬことがある」と言われたのは私が教師をしている時、30年ほど前の事だったと思います。
そして、「子どもにうつ病は無い」と言われていたのですが、20年程前に私はうつ病の小学生と出会うのです。彼は、精神科でうつ病の薬をもらっていました。大人のうつ病とはかなり現れ方に違いがあるようですが、子どもにもうつ病はあるのだということがわかりました。図書館で調べてもなかなかそんな本は見つかりませんでした。が、遂に1冊見つけたのです。アメリカの翻訳本でした。その後はどんどん「子どものうつ」の本は登場したのです。
発達障害に関してはここ数年でどれほどの本が発刊されたのでしょうか? 本屋さんに行けば探すまでもなく、平積みされていて簡単に見つけられます。それだけにどれを読めばわかりやすいのか困ります。
大人の中にも自分の生き辛さは「発達障害」にあったんだと、納得する人も増えているといいます。何しろ私たちの子どもの頃には、学習障害も、AD・HDもアスペルガー症候群もそういう言葉は無かったのです。「変な子」「落ち着きの無い子」などと呼ばれて本人にとっては大変だったと思いますが、病名、障害名というのは無かったわけです。それが近年、脳医学の発達や教育方法論の発展によって、いろんなことがわかってきたのです。
これから先、どんなものが発見されるのだろうかと思います(決して期待ではありません)。
障害児教育で得たこと
大学で「特殊教育」(すぐに「障害児教育」となりました。現在は「養護教育」と呼んでいるらしい)を専攻し、1年生のゼミで「自閉症」という言葉を初めて聞きました。この頃に初めて「自閉症」という言葉ができたのです。初めて聞く名称に実体が掴めませんでした。
その1年生の夏休みに養護学校に一人でボランティアに行きました。そこで、自閉症の女の子を担当しました。先生も手を焼いておられて、彼女に私が着くように言われましたのです。まず、彼女には言葉が無いので、何も話をしてくれません。私の手を引っ張るので、私のことを気にかけてくれているのだろうと思ったら、そうではないらしく、「君のことは、自分の遊び道具くらいにしか思っていないよ」と教えられた時はちょっとしたショックを覚えました。突然、車の下に潜り込んだり、何かをじっと見ていたり、全く私にはどうしてよいのかわかりませんでした。
しかし、この経験は私にとってとても大きな大事な経験となりました。「人間とは?」など本質的なことを考えるきっかけになったのです。
その後、「自閉症」は一般的な言葉となり、人付き合いが悪いと「あいつは自閉症だ」などと間違った使われ方をすることもしばしばで、残念な気持ちになったものです。
教師を辞めて、牧師になってから、AD・HDやアスペルガー症候群を知ったので、今も勉強の連続です。
私はこうした事を学びながら、障害を持つ子ども達と出会い、いじめを受けた子ども達、不登校になった子ども達と出会いながら、とても大事な事を学ばせていただいています。
子ども時代を楽しくおおらかに過ごせる子ども達がいる反面、辛い思いをしながら、時には「死にたい」という思いを持ちながら過ごしている子ども達がいることです。
イエス様は子ども達のことが大好きなのです。私も子ども達が大好きですが、とてもイエス様にはかないません。イエス様ならこの子どもにどんな風に接し、どんな言葉をかけられるのだろうか、といつも思うのですが、まだまだ聖書の勉強不足でしょうか、わからないのです。
イエス様は、
「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」
マタイの福音書 18:5
と言われました。少しでもそれに近づきたいと思っています。