種蒔きと刈り取りの法則
どうしますか?
子どもに仕事(お手伝い)を頼んで、まずそれを片付けてから、みんなでお出かけを計画したとします。もし、子どもがその仕事をなかなかしなかったら、あなたはどうしますか?
また、お出かけまでに仕事をしなかったら、どうしますか? 一緒にお出かけしますか? しませんか?
刈り取ることになる
聖書に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7) という言葉があるのです。
人生というものは時として厳しいものです。ちょっと手を抜いたがために、多くの人に迷惑をかけたり、自分がそのために苦しい目に遭ったりすることがあるものです。
信号を無視して急いだために交通事故を起こしてしまったというようなことはたくさんあるのです。その種を蒔いた結果、それに伴う刈り取りをするのは当然といえば当然なのですが、多くの場合、そんな結果になるとは思ってもみなかったということが多いのではないでしょうか。事故の場合は、「ごめんなさい」では済まされず、賠償問題も起こります。それが「刈り取り」ということでもあるわけです。
最初の質問に対してどのような答を出されましたでしょうか?
仕事をしなかったのに、一緒にお出かけできると、「その仕事をしなくても問題無いんだ」と子どもは思ってしまい、将来的にも自分がしなくても誰かがしてくれる、自分がしなくても問題無い、というような思い込みの人生を送ってしまう可能性があるのです。
自制
また、聖書の中に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23) という言葉があります。イエス様にあって成長していくと、このような実を結ぶことができるということです。
この中にある「自制」を考えてみましょう。
自制できる子どもは当然自制心をもった大人へと成長すると思います。子どもの時にはなかなか自制できなかったのに、大人になって自制心が身についている人ももちろんありますが、自制というものは「実」であって、そんなに簡単に実というものはつくものではありません。実をつけるのには時間がかかるものなのです。
わがまま放題に育てられた子どもが自制心を持った人になるのは考えにくいことです。幼い時から、ガマンを教えられたりしながら得ていくものです。
今、自分が何をしなければならないのか、何をしてはいけないのか、単に感情で決めるのでは無く、意思を持って決める必要があるのです。
罰
しなければならないことをしなかった、してはならないことをした時には「罰」を与えることも必要です。しかし、罰は難しいもので、それは子どもの虐待につながるようなものでは意味がありません。罰は子どもの将来に良い影響を与えるためのもので無ければならないのです。もちろん、罰を受ける時の子どもは一時的に辛いですが・・・
蒔いたものは刈り取るのです。幼ない内に自分のしたこと(選んだこと)の結果が、自分に、他人にどのような影響を与えるかをわからせなくてはならないのです。
しかし、幼い内からそんなことがわかるものではありません。ですから、褒めたり、注意したりして教え込んでいくのです。
最初の質問に対して、仕事をしなかった子どもはお出かけに連れて行かないという罰が考えられるのです。しなかったのに連れて行ってもらえると、責任をとる力が失せていきます。
心理的な罰を与えるのでは無く、現実的な「結果」を経験させる、それも時間が経たないうちにしなくてはなりません。
話を聞くことも
仕事を頼んでなかなかしない場合、やはり促すことは大事だと思います。促してもしなかった時に罰が登場するのです。しかし、一気に罰というよりも、子どもなりの正当な理由があるかどうかを確認することも大事な事です。
つまり子どもの話を聞くと言うことです。しかし、子どもの年齢によっては事実を事実として話せない子どももいます。断片的にしか話せなかったり、想像が加わってしまったりして、親には「うそ」をついているようにしか聞こえない場合もあります。
ですから「聞く」から「聴く」ようにしていただきたいのです。音声としての子どもの声を聞くのではなく、子どもの心の声を聴くようにするのです。
聴く訓練
第一反抗期に話を聴ける親になると第二反抗期も聴きやすくなるものなのです。子どもの話に耳を傾けることなのです。「傾聴」という言葉がカウンセリングにもあります。
かといって、親の側が一生懸命に聴いているのに、子どもの方は罰を免れたくて、言い逃れをしようともしますから、そういう態度は頑として受け付けないことです。
子どもはいつも真実を話すとは限りません。怒られないように、罰を受けないようにと嘘をつく場合も多々あります。
幼い内は簡単に見破られる嘘をつくことが多いですから、親もすぐに嘘を見抜き、「嘘はついてはいけません」と教えることもできます。
ところが、子どもも成長すると親に見破られないような嘘をつくようになります。そうすると、子どもの話を聞きながらも、実は子どもの嘘を信じ込んでしまうということも起こってくるのです。子どもを信じたいけれども、嘘をつくかも知れないから注意が必要となると、親の方も混乱してしまいます。
ここら当たりになると、親の直感力がものを言うようになります。親の方も訓練ですね。
要は子どもにまっすぐに育って欲しいわけですから、そういう願いを持って、愛をもって話を聴き、応答することです。
ここら当たりのことは、イエス様がなさった方法というのはとても勉強になります。
女性アナウンサーのお話から
体のあちこちを悪くして手術・入院を繰り返していたけれど、何とか定年退職された女性アナウンサーのお話をラジオで聞きました。
その方は年をとったので、老人ホームを見学に行かれました。至れり尽くせりの老人ホームがたくさんある中で、入所者がどこよりも明るく元気な老人ホームを見つけられました。そこでは所員が入所者のお世話をするのは最低限のこととだけで、自分でできることは自分でしてもらうという姿勢だったそうです。
移動に時間がかかっても、所員の助けでさっと車椅子で移動させるのではなく、自分で歩いて行くようにされているそうです。
また一斉に同じ事をするよりも、それぞれの好きな活動をクラブ活動のようにして自主的にしていただいているそうです。
食事はバイキング形式にして自分で選んで食べるのだそうです。
そのようなホームのお陰で入所者は元気で、笑顔が絶えないそうです。その元気で明るい方々を見て、彼女は感動されたのです。
この女性アナウンサーのお話を聞いていて、子どもたちも同じだなあと思いました。子どもたちも自分ですると大喜びします。与えるだけでなく、「自分で」ということは大事な事ですね。
誰かにしてもらうことに慣れてしまうと、してもらうことが当たり前になり、逆にしてもらえないと怒りの感情が出てくるのです。そして、それは子どもの心に悪いに決まっています(大人も同じです)。
「自分のことは自分で」という当たり前の事が近年、欠けてきて依存症傾向になる人も増えているのではないでしょうか。
イエス様は弟子たちにつきっきりで指導されませんでした。だからこそ、全世界に教会ができたのです。