メリー・クリスマス!
お誕生日会かお楽しみ会か
子ども達、あるいは誰かのために「お誕生日会」をする事があると思います。その時、主役である人を抜きでお誕生会をするとしたらそれは単なるお楽しみ会です。
私が中学2年を担任した時、生徒達が「クラスでクリスマス会をしよう」と盛り上がりました。その時、一人の男子生徒が「クリスマスはキリストの誕生日だから、そんなお楽しみ会みたいなことはしてはいけない」と言ったのです。
私は〈おやっ!〉と思いました。〈こんな事を言うのは珍しい子どもだ。もしかしてクリスチャンなのかな?〉と。クリスチャンではなかったのですが、クリスマスの意味を知っていて「そんなクリスマス会なら、ぼくは出席しない」と言ったのです。他の生徒達も困りましたが、私も困りました。彼以外の生徒達が盛り上がって良い雰囲気になっているのに、彼一人参加を拒んだのですから。
私は彼としばらく話をし、その結果「お楽しみ会」という名前にすることを提案することにしました。クラスのみんなはわかってくれて、結果、「お楽しみ会」となりました。大人なら「忘年会」だったかも知れません。(笑)
しかし、私はこの生徒達の話し合いで改めてクリスマスを多くの人が意味も知らずにイベントとして行っていることに考えさせられました。
はたしてクリスマスとは?
クリスマスはイエス・キリストの誕生日として世界的に有名なのにイエス・キリストの誕生日として祝っている人はどれ程いるのでしょうか?
今から2000年ほど前に誕生したイエス・キリスト。世界的にその問題点となっているのが、処女マリヤからイエス・キリストが誕生したということです。そのいきさつは、
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
マタイの福音書 1:18
と始まるのです。
そして有名な聖書箇所がこれです。
ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
ルカの福音書 1:26
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
ルカの福音書 1:31
何が信じられないか
科学的な時代、現代はこうしたことを受け付けません。イエスはローマの兵隊との間に生まれたとか、ヨセフと早まったのだとか、いくつかの噂が2000年前から言われ続けてきました。
しかし、聖書を全部読みますと、イエス・キリストが処女マリヤから生まれなければならなかった意味がわかるのです。またそれが真実だということもです。
つまりイエス・キリストは人間として生まれなければならなかった神なのです。これは歴史上たった一度の出来事ですから、科学的証明ができません。
こんな事は、夫となったヨセフにも信じられないことでした。彼はマリヤの妊娠に悩み苦しんだのです。聖書には、
夫のヨセフは正しい人であって、・・・
マタイの福音書 1:19
と書かれています。ヨセフに罪がなかったわけではありませんが、ユダヤの律法を守っていた人ということです。ということはイエスはヨセフの子ではないし、ヨセフは誰の子かわからず悩んだということです。そんな悩んでいるヨセフの夢に天使が現れたのです。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マタイの福音書 1:20-21
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
ここに「聖霊」という言葉が出てきます。聖霊は神です。イエスは人間として生まれましたが、その性質は神だということです。だからイエス・キリストによってどんな人でも救われるのです。
ヨセフとマリヤという夫婦
私はそういう神の計画の中にヨセフという一般人(当時の一般人は比較的貧しい人)を選ばれたのかが不思議でした。特にこのクリスマスの時期になると考えてしまいます。
マリヤと結婚を決めていたヨセフにとって、この出来事は大変迷惑な出来事です。しかし、彼は真面目に悩んだけれども、夢であれ、神の言葉を聞いて、マリヤは神の子を生むということを完全に信じました。そして、婚約解消することなくマリヤを妻として迎え、彼女を愛し続けたのです。ここに神の計画を感じました。
イエスは心・性質は神であっても、人間の頭脳も持ち、人間として育ったのです。それは、父親の愛を覚える必要があったということでもあるのです。だからマリヤは一人でイエスを生み、育ててはなりませんでした。
イエスは裕福な家庭に生まれて、何不自由なく育てられたのではなく、色々な不自由さを味わい、近所の人々の辛さを見ながら育つのです。しかし、そんな中、愛情深いヨセフとマリヤという夫婦の間で育てられるのです。
ヨセフは神の言葉に厳格な人です。マリヤも信仰深く、神の言葉に従う人です。その二人の生き方を見ながら育ったイエスは、二人から聖書の言葉を聞き、あの天使の言葉を教えられて、ある一定の年齢になったとき、自分がキリストであることを自覚するのです。
だからといって、ヨセフとマリヤが特別だったとは思いません。私たちと同じごく普通の人間だったと思います。ただ、マリヤは15~20歳の間の年齢だっただろうと言われていますので、現在で言えばかなり若くして結婚しています。ヨセフは大工として働き、家族を養う力を持っていたと思われます。
私は良い父親だろうか?
さて、こういうすばらしい夫婦を見て、私はどんな父親だろうか? と考えてしまいます。私は厳格さに欠けます。聖書を子ども達に語ってきたかという点では、幼い子にもわかるように話してきたつもりです。そして、子どもや妻のために祈ってきました。花や昆虫を見ては、神様の創造の素晴らしさに子ども達と一緒に感動したものです。しかし、私のような父親の姿を見て、子ども達は正しい生き方を学べただろうかと思うのです。
「子どもは父親無しでも育つ」という言葉にホッとしつつも、「父親の出番!」とかいう記事にドキッとするのです。
ヨセフはどんな思いでイエスを育てたのだろうかと考えてしまいます。
聖書は父親としての生き方を考えさせてくれますし、一人間としての生き方も考えさせてくれます。
クリスマスをお祝いするにあたって、もう一度、イエス・キリストの誕生日をなぜお祝いするのかしっかりと知っておきたいと思いました。
「クリスマスはサンタの誕生日」と間違って子どもに覚えさせないためにも、ヨセフと「親父の会」を作ってみたい気持ちです。