今年も4月がやって来た

子育て通信

4月

  「4月」というと、皆さんにはどんな思い出がありますか? 
  私は小学生の時の4月を思い出せません。「どんな顔をして小学校に入ったのだろうか?」と考えてしまいます。
  中学生になった入学式の日は覚えています。校舎に張り出されたクラス名簿を見て1年5組に自分の名前があるのにホッとしたのと同時に、知らない生徒の名前がずらーっと並んでいるのを見て一気に不安になったことを思い出すのです。それから体育館で何か校長先生の話を聞いたように思います。

高校の入学式

  高校の入学式は結構覚えています。入学した高校は新設校で、まだ校舎が一つしか無く、グランドも整備中、塀も無いという、突貫工事をして造った高校が丸わかりの学校でした。
  玄関に張り出された10クラス分のクラス名簿には名前が見つからず、合格してなかったのではないかとドキッとしたことを覚えています。その時、友達が私の名前を見つけてくれました。「ふじいのりあき」なのでまさか男子の最後25番とは思ってもみなかったのです(男子25名、女子23名、計48名のクラスで、名簿は24人で行が変わっていたので見つけにくかったのです)。
  それから大きなテントの中での入学式でした。校長先生は「この学校には君たち1年生しかいません。君たちがこの学校の伝統を作っていくのです」と語られ、その上で保護者にも「この高校は受験体制を取りません」と言われました。この何も整っていない学校がすごく気に入った瞬間でした。
  「大阪府立第69高校」(府立の69番目の高校だからです)という名前でスタートしたこの高校、翌年に「三島高校」と正式に名前がつきました。校歌は卒業するまでなかったような気がします。(笑)
  そんな学校がすごく気に入って、毎朝通うのが楽しくなりました。歩いて30分ほど。途中から歩いている先生と出会えたので、先生と話しながら登校するのが楽しかったです。

整っていない学校が楽しい

  グランドは整備中でしたので、最初の体育祭は大変でした。雨の後、グランドがひどい状態になりました(田んぼを埋め立てた場所なので水はけが悪かったのです)。しかし、480名の生徒は先生方と一緒に水をかい出し、泥を取って砂を敷くなど長時間かけて整備しました。これが私にはとても楽しかったです。おかげで体育祭は実行できました。その時もまだ塀は無かったので、どこからでも学校に入ってくることが出来ました。
  体育館は無いし、グランドはこんな状態ですから、体育の授業は長らく外を走るのが中心でした。これがまた好きでした。
  高校には食堂があると思っていたのですが残念なことに無かったのです。しばらく経ってやっとプレハブの建物でうどんとカレーを食べることができるようになりました。
 3年生になると食堂や体育館、プールができました。本当に設備の充実していない学校でしたが、私にはとても楽しい学校でした。
  受験体制はとらないので、定期テストは学期末テスト3回だけ(科目毎の小テストは何度もありましたが)。その代わり、毎月球技大会があり、先生も先生のサッカーチームをつくって参加してくれました。

進路が決まらない

  楽しかったのですが、早速1年目の健康診断に高校には珍しく心電図検査がありました。それに私はひっかかってしまい、それから検査の連続でした。血圧も170あったので、運動制限された高校3年間でした。
  (一気に3年生)
  大学受験前、受験体制を取らない学校だけに、塾に通わなかった私には大学進学のことがよく分かりませんでした。塾に通っていた友達はどんどん受験校を決めて行きました。私もそろそろ決めようとした頃、目が悪くなってしまい、希望する学部がこの視力ではダメだと知り、その学部・大学は諦めました。みんなが受験校を決めているのに、私は将来何になりたいかが決まらなくて受験校が決められませんでした。むしろ浪人覚悟で予備校を考えることにしました。予備校の案内を見てそこに入ることを楽しみにしたのですが、我が家の経済状態は悪かったので、一番安い予備校を探さざるを得ませんでした。

進路が決まった

  そんな時、進路相談室を訪ねたのですが、先生がおられず、仕方なしにしばらく職業ガイドブックを見ていました。
  すると、そこで私の将来の仕事を見つけたのです。「養護学校(現在の支援学校)」の先生でした。障害を抱えた子どもを汗だくになって抱えている先生の写真を見たとたん、「これだ」と決めたのです。
  嬉しくなって、進路相談室を飛び出し、担任に「先生! 養護学校の教師になりたいです!」と言いました。担任は少々驚いていましたが、「よし、じゃ、養護学校を見学してこい」と言って、早速養護学校に電話して、翌日見学できるようにしてくださいました。ありがたかったです。
  見学に行くと、先生方は温かく迎えてくださって、校舎と授業を見学させてくださり、色々大切なことを教えてくださいました。「この学校で働きたい」との思いが募り、担任に教育学部を受験することを話しました。やっと進路が決まったのでした。
  2学期の終わりのことだったので受験までもう時間が無くなりました。自分の学力ではとても無理だと思い、浪人を目指しました(笑)。

大変な体験

  さらに2月、受験の少し前になって、さらに目が悪くなり、電気がついているのに回りが暗く大変見え辛くなりました。「文字が読めない」と、冷や汗が出ました。しばらくしても変化が無いので、目医者で検査をしてもらうと、先生から「君の目はすでに視神経の半分が死んでいる。あと半分死んだら失明するから、すぐに大学病院に行きなさい」と紹介状をいただきました。「あーー、失明したら、教師にもなれない!」と、ものすごい恐怖心が湧いてきました。

  家に帰ってクリスチャンの母にこのことを伝えたら、私の目に手を当てて祈ってくれました。それから大学病院に行きましたが、医師から「ここに書いてあるような視神経の異常は無いんだけど」と言われ、キョトンとしてしまいました。確かにあの暗さは消えて、また見えるようになっていました。その書類をいただいて目医者に行くと、「そんなバカなことがあるか!」と言って、検査室に入れられました。すると、先生も「治ってる」とただただ驚かれたことを思い出します。
  これが私の不思議な癒しの体験でした。目が見えるようになったのは、母が祈ってくれたことしかありません。でも、神の存在を信じられなかった私は不信仰なままで「偶然だ」と思っていました。

春が来た

  そして受験が終わって、まず受かってないと思い予備校の手続きをしました。そんな時に、母から「春の高校生バイブルキャンプ」という案内をもらいました。今までクリスチャンの母に反抗していた私でしたが、この時だけはすごく素直に「行ってくるわ」と自分で申込み書とお金を教会に届けに行きました。
  そしてそのキャンプでクリスチャンになる決心をして帰ってきました。その直後に大学合格がわかり、予備校はキャンセルでした。(笑)

  そして4月、大学の入学式。なかなかの田舎にある大学で、古い木造校舎に窓が閉まりきらない教室でした。校門から校舎までわりと長いスロープで、その両側にタンポポやレンゲが咲いているという大学で、初夏にはすぐ横にある池からカエルの鳴き声が聞こえました。思い出せば高校も周りが田んぼで、やはり初夏にはカエルの鳴き声がうるさくて、授業が中止になったこともありました。いったいいつの時代なんでしょうね。(笑)

感謝の日々

  あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(聖書・伝道者の書12:1)
  という聖書の言葉を、少しして知りました。18歳でクリスチャンになりましたが、「もっと早くイエス・キリストを知っていたら良かったのになあ」と、何度も思ったことでした。聖書を知ると科学や学問がさらに楽しく思えました。
  私は反抗期の時期に心臓検診でひっかかったり、目の病気で進路を見失いかけたり、失明しそうになったことで神を知ることができたのだと思い、感謝しています。自分の目なのに自分でどうにもできず、ただただ不安になってしまう自分でしかないのです。人間って本当に弱い者ですね。

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Posted by shinnakano