どんな人に育てたい
人づくり
教育とは「人づくり」であるわけですが、それは何も幼稚園や学校だけの仕事ではありません。大人になれば企業も「人づくり」をすべきです。社会全体が人づくりをしなければならないと思います。当然、家庭は「人づくり」の最たる場となるでしょう。
イギリスでは学校の先生は学問を教えるだけで、部活動や生活指導・しつけなどは行わないと聞きました。現代日本の学校で大変なことの一つに先生があまりに忙しいことが挙げられますが、イギリス式ならば先生方も楽になることでしょう。
さて、私たちは子どもをどんな大人に育てたいのでしょうか?
自分からする経験
指示待ち症候群、無気力、マザコンだとか色々ネガティブな言葉があります。「草食系男子」という言葉も流行っていますが、これは単におとなしい、優しい男性のこととも言い切れないようで、よくわからないですね。
現代の青年で、実際に仕事をしても自分から考えられず、上司の言うことだけを行う人が増えていると聞きます。それは子どもの時から、「自分からする」という経験が少なく、やらされるという経験が多いからだと言われています。
親がしてあげる
ある幼稚園で、トイレに行った男子がジッと突っ立っているのを先生が発見しました。そこで、その先生が「どうしたの?」と聞くと「ズボンおろして」と言ったのだそうです。しかも、その子は今度は洗面所で水道の蛇口をひねらず手だけ出していたそうです。先生は「えっ!」と思いながら聞きました。「どうしたの?」。案の定「水出して」と。この子は家でお母さんが全部してくれていたそうです。
こういうケースはそんなには無いと思います。確かにちょっと驚く例です。しかし、他にも探せば、自分の子育てにも何か出てくるかも知れないですね。親が子どもに代わってどんどんしてあげるということがです。過保護というより、過干渉と言えるのではないでしょうか。
自立した人
ではいったいどんな子育てをすべきなのでしょうか?
子育ても教育も目標とすべきところがありますが、それは人によって、家庭によって違うことはいくらでもあります。
しかし、「自立」という観点で見れば、どの子どもにも必要ではないでしょうか。「うちの子は自立しなくていい。いつまでも私の元で、私が世話をしてあげる」と言う人はそうはいないと思います。(病気や障がいがあって、介助が必要な子どもはもちろんいます)
自立した人というのは何も「自分の事が自分でできる」人のことではないのだと言われています。それができることはもちろんだけれど、「他の人のことを考えられる」人でなければ「自立した人」とは言えないというのです。
確かに自分のことが自分でできなければ、親は自分の死後も心配でたまりません。ですから自分でできる人に育てていくことが大事なわけです。
基本的生活習慣
自立するためには、幼い時期に基本的生活習慣を身につけておくことが大切です。こんなことは今更言うまでも無いのですが、早寝早起き、挨拶をする、洗面、朝ご飯を食べるなどといった色々な基本的生活習慣です。体は(脳は)この基本的な繰り返しを覚えますし、その規則正しい生活で体も心も整えます。ですから、幼い内にこの基本的なリズムを身につけ、そのこと自体に苦労しないことが大事です。
早起きをさせていないと、子どもが小学生になって、早起きできる子に比べて起きれない子はそれ自体が大変なことで、苦痛になります。こうした基本的なことで苦痛を味わわない方が良いのです。
また、少々疲れても、病気をしても、基本的生活習慣が身についていれば、リズムを整えることで治りが早いのです。(これらのことにはもちろん個人差があります)。
みんな違ってそれでいい
金子みすずさんの詩
私が両手をひろげても、
わたしと小鳥とすずと
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私
みんなちがってみんないい。
あるいはスマップの歌う 『世界に一つだけの花』
花屋の店先に並んだ
世界に一つだけの花
いろんな花を見ていた
人それぞれ 好みはあるけれど
どれもみんな きれいだね
というように違いを認める風潮も出てきました。しかし、なかなか同じであることを求める日本社会は変わりにくいです。なぜか変に比較して、遅れをとらないようにと願い、しかも同じようにできることを願っています。なんでもみんな同じようにできるというのはあり得ないことなのです。が、「遅れをとらないように」「ついて行けるように」、という親心が子どもに「もっとできるようになりなさい」と要求するようになっているのです。
みんな違うということは「わが子はわが子」ということをしっかりと親御さんも認め、「わが子」を育てる意識が必要なのです。
教育方法は色々ありますが、その教育方法を全部試す時間はありません。自分で決められない、考えられない子どもの時には親が「よかれ」と思うことを決断すべきでしょう。
助け合える人
「人」という漢字が互いに寄りかかっている様子を描いていると言います。人は互いに助け合わねばなりません。協力し合うのです。
幼児期は社会性を学び始める時期です。それはわがままを言っていたのではダメ、自分のことだけ考えるのもダメ、お友だちのこと、みんなのことを考えていくということを身をもって体験していく時期です。
そして、広い視野、寛容な心を身につけ、大人になっていくのです。
聖書の中にこうあります。
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
Ⅰコリント12:15-22
この聖書の言葉のように、神様はそれぞれを違うようにお造りになったのです。みんな違うけれど、互いに助け合う時、各自の持ち味も生かされ、他の人も喜べるのです。それなのに何か「一匹狼」を作り出そうとしているのが現代社会ではないでしょうか?
少し前まで企業も人材育成を心がけ、経済的に厳しくなっても首切りせず、みんなで苦境を乗り越えようとしていました。しかし、今や企業の生き残りのために企業に役に立たないと思われる人から切り捨てるのです。「さみしいなあ」と感じます。
そんな中で他の人をけ落としてでも生き残れる人を造ろうとしているのではないでしょうか?
競争が悪いとは思いませんが、戦争的な競争はどうでしょう?
結果的にお互いが苦しむのです。弱い部分を慈しむように、人間もお互いを慈しむようにできたらと思います。