親の直感力
直感を大事に
「あなたは考えすぎてしまう親」(アン・キャシディ著 講談社)の最初の方に以下のようなことが書いてありました。
世界を大きく変えつつある情報革命が、かつては本能や直感頼りの個人的な行為だった育児を、専門家の指導のもとにおこなわれるきわめて複雑な行為に変えようとしている。・・・・そして気がついた--考えるのがいけないんだ。考えすぎなのだ。ワン・ステップごとにあれこれと考えすぎ。ゆとりも喜びも、いちばんまずいのは自信までもなくしてしまっている。昔ながらの子育てを捨て去り、本から学んだ知識に頼りすぎている。
私も何度か講演会で、「もっと親の直感を大事にしましょう。また直感力を鍛えることが大事だと思います」というようなことを語ってきました。
あふれる情報
子育てに関する本や雑誌、月刊誌がものすごい数出ています。私が大学4年の時(もう34年も前のことですが)本屋さんで子どもの反抗期に関する本を探したのですが、なかなか見つけることができなかったことを思い出します。
また、20年ほど前に私たち夫婦も子育てを始めていましたし、子育ての会を行っていましたので、子育ての本を探しました。その時はさすがに子育ての本は出ていましたが、今のようにあふれるようにはありませんでした。それが、この20年の間に子育てに関する本や雑誌がこんなにもたくさん売りに出るなんて思ってもみませんでした。そして、「子育ての難しい時代」とも言われるようになっていきました。
かわいくてたまらない
子どもの発達に関することを大学で知識的に学んできましたが、我が子をもった時、知識は吹っ飛びました。かわいくてかわいくてたまらず、一秒でも長く一緒にいたいと思ったのです(時と共にその気持ちが薄れてしまったようですが(^^;))。
私も多くの子どもさんの相談を受けてきましたが、そこで感じたのは直に子どもを見るよりも、本や情報を通して子どもを見ているという感じでした。子どもがまるで何か家電のようにマニュアル通りに扱われ、本の通りに育っていかないと不安でたまらないということです。
我が子をかわいいと思うからこそ心配するんだ、と言われればそれまでですが、本当に我が子をかわいいと思っているのだろうか?と思うような場面に出くわしたことも何度かあります。まだ幼い子どもに対して、異常と思えるようなまでに感情的に怒る姿、そこに手や足までが出る暴力。我が子をどのように思っているのかと心痛んだことが何度もありました。
完璧なマニュアルは無い
子どもが生まれると自動的に親になってしまいます。同時に何かしら親としての直感も生まれるような気がしますが、その親としての責任を重く感じすぎて、自信を失い、マニュアル通りに育てたいという思いが起こるのかも知れません。しかし、子育てに完璧なマニュアルはありません。
子育てや教育というのは国や地域によってもかなり違います。赤ちゃんをおんぶするか、前に抱くかというようなことでも違いますし、ある国では新生児を布でくるんで、身動きすら自由にできないのではないかと思うほどにくるんでしまうところがあります。かと思えば、おしめも何も無しで育てるところもあります。それぞれの地域の特性、気候、風土、色々なものによって子育ての形ができてきました。それらの形はその国・地域では大変有効でも他の国・地域では有効でないものもあるでしょう。それがいつしか、全世界共通のような子育てマニュアルがあるかのように錯覚させてきたようにも思います。
自然に触れる
私は子育ての会で度々語ってきたことがあります。「子どもを自然に触れさせてあげてください」ということです。自然というのは実に素晴らしいのです。人間の作ったおもちゃも素晴らしいものはいっぱいありますが、神様の造られた自然というのは子どもにとって大変素晴らしいおもちゃでもあるのです。
子どもたちの神経が発達する時期、はじめは何でも口に入れます。そこに神経が集中しているからだそうです。次にいろんな物をつかみます。手と足裏に神経が伸びて集中しているのです。いろんな物をつかむことでその神経刺激が脳に伝わり、脳が発達します。しかも、自然というのは同じものが無いといいますか、たとえば同じような植物はあっても、その一枚一枚の葉っぱはみんな違うのです。人間に同じ人間が二人いないのと同じです。そうしたことを感じ取って子どもが成長する、無限の世界を感じるのは素晴らしいことなのです。
風が吹いてくると夏には気持ちよく、冬には寒くてたまらないというように同じ「風」でも時期や他の色々な条件で違った感触を受けるのです。弱い風は心地よくても強い風は気持ちよくないなどもそうです。子どもは扇風機やクーラーの風にあたって慣れっこになるのは良くないのです。自然の風を味わうことが大事なのです。
同時にそれは夏は暑い、冬は寒いという基本的な感覚をも感じ取らねばなりません。あまりに環境を整えられて、夏にクーラーで涼しさを味わいすぎると、夏の暑さを理解できなくなるでしょう。暑さを工夫する力、暑さを楽しむ力さえ身につけなくなるということではないでしょうか。
神様を求める心がある
人間には神様を求める心があると言います。それは親を知らない子どもが、ある年齢になると親を捜すのと同じようなものなのかも知れません。子どもによっては、親がいるのに、この親は実の親だろうかと疑い、本当の親を捜しに出る(他に本当の親はいなくても)ということがあります。本当の親でないと自分が何者か混乱するというのです。いわゆるアイデンティティというものでしょう。親があって自分のアイデンティティが確立すると言うことでしょうか?
であるとすれば、私たち人間のルーツは大きな意味をもちます。キリスト教では人間は神様によって造られたと言います。つまり、真の親は神様ということです。その神様が私たち人間の心に「神様を求める心」を造っておられるとしたら、神様を求めるのはごく自然です。
聖書のローマ人への手紙というところに、パウロという人がこう言っています。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)つまり神様はこの世界を見れば、その自然の中にでも神様の力、愛、を見ることができ、神様のおられることは間違いないと悟るものだと言うのです。
人間の中に与えられた直感力というものは、その最も大事な神様を見いだすことができるように与えられた力とも言えるのではないでしょうか?
私は美術の教師をしました(決して上手であったわけではなく、教育としての美術を学んだだけです)が、美を追究する心が人間にはあるのです。だから美術は楽しくなるのです。人間の心にはなかなか説明のつけられない色々なものがあります。愛する心はどこから生まれたのか?美を追究する心はどこから? 神様が与えたと信じなければ説明がつかない、そういう心があるから互いを思いやったり、支え合ったりできるのです。
この心が直感力と無関係ではないということです。自分と違う人の気持ちを理解したり、思ったりするのは直感力が鍛えられている方がよいのです。直感力は均一的なもの、マニュアル通りのものからは育まれないと思うのです。神様の造られた、同じもののないこの自然の中に浸り、その自然のもたらす心地よさ、心の開放感、自分がリフレッシュされるエネルギーを感じ取ることで生まれてくるのではないでしょうか。
親が子どもを見る時もこの親の直感というものが生きるのではないでしょうか。幼い時は、子どもを見て直感的に病気を発見したり、思春期には直感的に、精神的に追い詰められていないかとか、非行に走っていないかを見分ける力になるのではないでしょうか。