それ、みこころですか?
みこころを行う人に Ⅰサムエル26:7-12

それ、みこころですか?

礼拝メッセージ

説教者:藤井師
 2024/2/11 礼拝説教
【テーマ】  みこころを行う人に
【説教題】 「それ、みこころですか?」
【聖書箇所】 Ⅰサムエル26:7-12

26:7 ダビデとアビシャイは夜、兵たちのところに来た。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵たちも、その周りに眠っていた。
26:8 アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」
26:9 ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。【主】に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」
26:10 ダビデは言った。「【主】は生きておられる。【主】は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。
26:11 私が【主】に逆らって、【主】に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」
26:12 ダビデはサウルの枕もとの槍と水差しを取り、二人は立ち去ったが、だれ一人としてこれを見た者も、気づいた者も、目を覚ました者もいなかった。【主】が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠り込んでいたのである。

Ⅰサムエル26:7-12

○ 私達は「主の祈り」を祈る中で みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。(マタ 6:10 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。) と、祈ります。みこころというのは天では行われています。それが地上でも行われるとは何と幸いでしょう。
    よく私は「みこころは何ですか?」「私に対するみこころは何ですか?」というようなことを聞かれます。しかし、神で無い私にはそんなことわかりません。敢えて言うなら、 Ⅰテサロニケ4:3 神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。 ということくらいしか答えられません。
    祈って何か不思議なことが起こるとこれが導きだ、みこころだと思って突き進み「間違っていた」と思うことがあったりします。きょうのテキストでもダビデの部下たちはサウル王を殺すことがみこころと思った話が出てきます。

それ、みこころですか?

Ⅰ.何がチャンスなのか?

逃げるダビデにチャンスがやって来た

    1.サウル王のダビデに対する妬みはなかなかのものでダビデは命を狙われます。そのためにダビデは逃げ回ることになりました。ダビデはすでに王としての油注ぎを受けているのですが、サウル王に知られないように受けていただけなので、サウルは自分が神から王に任じられていると思っています。その王座を狙われていると思っているのでしょう。ですからダビデを殺してしまおうというわけです。

    2.ダビデは自分に付いてきてくれる信頼できる兵士達と共にサウルから逃げ回ります。そのダビデをサウルは追いかけて来るのですが、今日のテキストの前24章で、こんな話があります。サウルが用をたすために洞穴に入るのですが、その奥にはダビデ達が隠れていたという話です。用をたすのですからサウル一人で洞窟に入ってきたのです。絶好のサウル殺害の場面です。

殺すのか、殺さないのか

    1.この臭い話はダビデの部下にとってはサウルを殺すチャンスと捉えました。一方ダビデはそういう部下をたしなめています。そして、サウルの服の裾を切り取って後でそれを見せ、サウルを殺さなかったことでサウルに対して謀反を起こそうとしていないことを示しました。この時サウルは悔い改めたのですが、すぐに気持ちは変わる人です。

    2.そして、今日のテキストにあるように、夜、サウル達が寝込んでいるときにダビデとアビシャイはサウルのテントに行きます。サウルが寝入っているので、アビシャイは剣で一突きにして殺そうと言うのですが、ダビデはそれをたしなめます。そして、サウルの枕元にあった槍と水差しを持ち帰り、それを山の上から見せて、殺せるのに殺さなかったことを告げます。サウルはまた悔い改めて引き返します。

見方で変わってしまう

サウル殺害のチャンスと考えてよいのか?

    1.サウルは悔い改めてもまたダビデ殺害に燃えるような人です。ダビデがサウルを殺さずにいるということは自分が殺される可能性が高くなります。殺される前にサウルを殺しておく方が安心だと思うのは部下のごく普通の考えでした。部下はサウルを殺せるチャンスを神がくださったのだから殺せばよいという考えです。

    2.一方ダビデはたとえサウルを殺すことができる状況であってもそれは神の御心に反するという考えです。どちらも同じ状況にあるのですが、捉え方に違いがあります。こういうことは私達にもあることです。状況は同じなのにとらえ方が違うということです。

同じ状況でも違って見える

    1.「ある人はその物体を見たときに四角だと言い、ある人は丸だと言いました。でも二人とも同じものを見ているのです」というクイズがあります。それはドラム缶のような円柱形のものを見たからです。一人は横から見て四角に見えて、もう一人は上から見たので丸に見えたわけです。どちらも間違いでは無いというもののどちらも当たっていません。

    2.私達が神の御心を求めるときにもこういう当たっているようで当たっていないということがあるのではないでしょうか? 神の大きなご計画、御心を一方向からだけ見て、自分の思いに合っているからこれが御心だと決めつけることです。ダビデも部下と同じ思いになっていたらサウルを殺してしまうという罪を犯したでしょう。

神の御心を追い求めよう!

神に対する忠誠

    1.この話はダビデのサウルに対する忠誠心を示す話というより、神に対する忠誠心の話です。士師記では、イスラエルが度々近隣の国に苦しめられ、士師によって助けられてきましたが、その苦しめられる背景にはイスラエルが神に背いた生活をしていたことがあります。神のことよりも自分たちの良いと思うことをしていたからです。

    2.それに対してこのダビデの話はゴリヤテをやっつけたときのような爽快感は無いにしても気持ちのいい話です。ダビデは神が立てたサウルを殺すことなどできないという考えです。神に対する信仰から出た考えです。

決断を祝される神

    1.私達は考える頭をいただいています。そして、決断する意志もいただいています。ロボットとは違うところです。ですからダビデの部下のようにも考えることもできますし、ダビデのように考えることもできます。あるいはこの両方を考え悩むことがあるのでは無いでしょうか。

    2.私達は悩まされるものです。何がみこころなのか? 何をすれば良いのか? 何をしてはいけないのか? だから祈り求めます。祈ることが大事なのです。

★ みこころはそう簡単にわかるものではないかも知れません。 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。 という信仰の思いをもって祈り続けることなのでしょう。