『私が道』と言われた方
2024/10/6 礼拝説教
【テーマ】 イエスが救いの道
【説教題】 「『私が道』と言われた方」
【聖書箇所】 ヨハネ14:1-6
【説教者】 藤井敬朗師
14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
ヨハネ14:1-6
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
○ 踏分道、けもの道、あぜ道、整備された高速道路、色々な道がありますが、道はどこかに通じさせるために造られたものです。
あなたはどの道を選びますか?
当たり、外れ
1.子どもの頃、あみだくじを知ってとても不思議に思いました。たどっていくと決まったところにしかいかないのです。当たり前のことですが、子どもの私には不思議だったのです。道には分かれ道があるのが普通のようです。その道はあみだくじのように当たり外れもあるようです。当たり外れはどの時点でわかるのでしょうか? 人生の道は「外れ」を歩きたくないですね。
2.アメリカ第22代大統領クリーブランドがまだ法科の学生だった頃、ある夜、酒場に行くために夜道を歩いていました。ある街角の教会の前に来たとき、クリーブランドは何か集会に心ひかれ、友だちと別れ、教会堂に入りました。その友だちはそのままバーに向かいました。何年もたって、その友人は罪を重ね、ダラスの刑務所にいました。そして刑務所で一枚の号外を見たのです。それはあの若き日の友人クリーブランドが大統領に当選したというニュースで、一緒に教会に入っていればと思ったそうです。どの道を行くかで人生は変わります。
いのちへの道
1.聖書には マタイ7:14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 とあるように、大事な道があることを教えています。「いのち」に行かなければならないのです。しかし、見いだす人がまれだと言われると、これは大変なことです。
2.人に道を教える時、私たちは地図を用いたり書いたりします。でも、それは目的地にまで行ったことにはなりません。実際に道を行かなければ目的地には行けません。聖書は人生の地図のようなものです。私たちの正しい生き方を教えてくれます。そして、イエスは道です。イエスが道であるということは、この道を行けば見えない神のところに行けるということです。イエスは神への道なのです。この道を歩めば間違いないと言うことなのです。
あなたの道を私に教えてください
詩篇27:11
1.ダビデの歌った詩篇に 詩篇27:11 【主】よあなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがいますから私を平らな道に導いてください。 というのがあります。悪から守られて、正しい道に導いて欲しいという彼の願いが歌われています。
2.この詩篇の言う「道」は「イエス」を表しています。私たちの人生の道にも悪への誘惑がいっぱいです。多くの人は決して悪に誘惑されたいとは思っていません。でも、気づくと間違った道を行っていたという人も少なくないのです。
イエスは救いへの道
1.人は人生の正しい道を求めます。それはこの地上で健康であるとか、金持ちになるとか、有名になるとか、道徳的に正しく生きるとかいうことではありません。罪から救われなくてはこの地上の人生も虚しいのです。イエスの仕事はこの救いへの道を示すことでした。イエスが私たちの罪の身代わりになって十字架に死ぬこと、それによってのみ私たちの罪の赦しがあります。
2.罪人の罪を赦すには裁きをする方がそれに見合う代償を受けたときです。人間は誰も自分の罪の償いができません。また、すべての人間は罪人ですから、誰の身代わりにもなれません。イエスは罪がありません。ですから、イエスだけが罪人の身代わりになることができたのです。だから私たちはこのお方を信じ、人生の道であるこのお方と歩むのです。
この道しかないことを知ろう!
どれでも良いのではない
1.日本人は多くの宗教の中に生きていますので、どうしても救いが一つにしかないことを受け入れにくいようです。道徳的教えとしてすばらしい宗教はあると思います。ただ罪からの救いはイエスだけなのです。
2.山に登る道はたくさんありますが、頂上は一つだからどこから上ってもいいのだという言い方があります。確かにそういうたとえは正しく聞こえますが、本当でしょうか?
神から来てくださった
1.本来、神はお一人で、人間もそのことを知っていたのです。ところが神から離れてしまいました。これを罪というのですが、そのために人間が勝手に神を造ってしまい、正しく神を理解できなくなったのです。真実を知っておられるのは神です。そのお方から聞くのが一番です。
2.そこで、イエスはその見えないお一人の神を示すためにおいでになったわけです。人間に神がわかるようにと、神の方から来てくださったというわけです。十字架はその神の愛を現しています。
★ 正しい道も悪の道もあります。正しい道を歩もうではありませんか。道は歩いてこそ道です。あなたも今から、信仰の道を歩きませんか。
Posted by shinnakano
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