
信じるなら神の栄光を見る
2025/9/7 礼拝説教
【テーマ】 悲しみを喜びに変えるイエス
【説教題】 「信じるなら神の栄光を見る」
【聖書箇所】 ヨハネ11:1-45
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。
11:32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。
11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。
ヨハネ11:1-45
○ イエスは十字架で死なれた後復活されましたが、それは死ぬことのない体でした。今日の聖書箇所にはラザロという人のよみがえりが出てきます。イエスが墓の中のラザロに呼びかけると生き返って出てきたのですから驚きです。でも、ラザロの体はイエスの復活の体とは違って普通の体です。
マルタ、マリアの祈り
イエスに来て欲しい
1.マルタ、マリアの兄弟であるラザロはかなり重い病気だったのでしょう。イエスが癒すことのできる方だと信じていたマルタ、マリアはイエスに使いを送りました。 11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」 と。
2.これは二人の祈りではないでしょうか? イエスにはできると信じてイエスに願っているのです。私達もイエスにはできると信じているから祈るのです。
すぐに来なかったイエス
1.イエスはラザロが死ぬことをわかっておられましたが、すぐにラザロの所に行きませんでした。 11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 とあります。
2.それにはイエスのお考えがあったわけです。 11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 マルタ、マリアだけではなく、弟子達や多くの人がイエスを信じることができるために、イエスはラザロを死からよみがえらせることをなさったのです。もちろん、ラザロもイエスを信じたでしょう。
悲しみに押しつぶされそうになる
人間には死をどうにもできない
1.イエスのそんな考えを知らない姉妹達は嘆き悲しみます。ラザロをよく知っている近隣の人々も悲しみました。ラザロやこの兄弟姉妹は多くの人に愛されていたみたいです。それだけに悲しみは深かったと思います。
2.その悲しみは「もうこの地上でラザロと会うことができない」という深い悲しみであり、人間の力の及ばないことを感じさせるものです。生きていれば何とかなるのですが、死んでしまったらもう終わりという感があります。人間には死に打ち勝つ力がないのです。
裏切られたような気持ち
1.マルタは 11:21-22「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」 と言い、マリアも 11:32「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」 と、同じように言っています。二人ともイエスが神の力で病気を癒すことができることを信じています。
2.信じていたイエスがすぐに来てくれないからラザロは死んでしまったのだと思い込み、死んだら終わりだと思い込んでいます。信じていたイエスに裏切られたような気持ちは悲しみを更に増し加えたことでしょう。
信じる者の見るもの
神に絶望しても神は真実
1.人々は 11:37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。 と、イエスが奇跡を行ったことを見ていたり、聞いたりしていたのですが、この言葉にはイエスに絶望した気持ちがあります。
2.そういう人々に対してイエスは 11:35 イエスは涙を流された。 のです。そして、 11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」 11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
イエスの言葉を信じる
1. 11:43 イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。 すると、ラザロが生き返って出てきたのです。イエスの言葉は死をいのちに変えることができるのです。そして 11:45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。 となるのです。
2.イエスの言葉には力があります。権威があります。死から命に変える権威があります。辛い思いをして、一時はイエスに裏切られたと思っても、イエスは裏切らず、神の栄光を見せてくださるのです。
● Y・A姉は統一協会に入信して家族を大変苦しめてしまいました。でもそこから救い出されて、クリスチャンになり、幸せを歩み出されました。しかし、クリスチャンになったからといって順風満帆ではなく、色々な辛いことがありました。しかし、そんな中でイエス・キリストの愛の深さを知られたのです。そして詩を書かれ、私に見せてくださいました。この詩を見て、私の中に歌が生まれました。
「愛に触れて」 作詞:Y・A 1987.9.16
1.ひとをきずつけては 私もきずつき
だれも信じられずに 背を向けていた
そんな私を 主イエス様は 見捨てずに
その手を 私に さしのばされた
主イエスの愛に触れて 悲しみが歌に
十字架の愛に触れて 喜びがあふれる2.ひとり ひざをかかえ 心の中の
重荷にたえられずに 泣いた日もある
そんな私を 主イエス様は 見捨てずに
重荷のすべてを 取り除かれた
主イエスの愛に触れて なみだが祈りに
十字架の愛に触れて 平安がおとずれる
★ 今日の大事なところはイエスの言葉を信じるということなのです。ただイエスには奇跡を行う力があることだけを信じるのではないのです。Y・Aさんの詩にあるようにイエスは見捨てない方であることを信じ、イエスによって日々喜びと平安を味わうことなのです。それが神の栄光です。 信じるなら神の栄光を見る のです。
Posted by shinnakano
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