
神の目には終わっていない
2026/1/11 礼拝説教
【テーマ】 死から命へ
【説教題】 「神の目には終わっていない」
【聖書箇所】 マルコ5:21-24,35-43
5:21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
5:23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。5:35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」
5:36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。
5:41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。マルコ5:21-24,35-43
○ 一昨年11月17日に今日のテキストの間に挟まれた15:25-34「長血の女」の話を語りました。今日はその前と後の部分で、会堂司ヤイロの娘の生き返りの話です。
ヤイロの切実な願い
ヤイロという人
1.ヤイロという人はユダヤ人で会堂司です。会堂司とはユダヤ人の礼拝堂(シナゴーグ)の指導者で、安息日礼拝の責任者です。自ら聖書の朗読や祈り、礼拝の司会などもする人で、説教者を指名し、集会全体を取り仕切ります。また、会堂の管理をすることを任された大事な人です。民の長老の中から選ばれた人で、ユダヤ社会で人々から尊敬されている人でした。
2.「ヤイロ」という名前は「神のまなざしが注がれている人」「神に呼び起こされた人」という意味を持っています。この名前のように自分では気づいていなくても、神の目が注がれているのです。
イエスに求めるヤイロ
1.ユダヤの指導者達がイエスを目の敵にしていた時に、同じ指導者の立場にあるヤイロがイエスにひれ伏すのですからよっぽどのことだったわけです。それは自分の愛する娘が死にそうだからです。ニコデモもへりくだってイエスの所に来ましたが、このヤイロもそういう意味では同じです。ユダヤ人の指導者の中にも正しい目でイエスを見る人はいたのです。
2.だからと言って、このヤイロの言葉に果たして信仰的な言葉が見いだせるかというとそうではないと思います。娘が死にそうなら有名な医者のところに必死になって行くのが親です。その頃、癒しで有名になっていたイエスに頼るのは信仰があったとは言えないと思います。とは言え、イエスはヤイロの娘のために出かけられました。
死で終わりと思う人々
なぜ、立ち止まる!?
1.こんなに急いでいるときに「12年間長血を患っている女性」が現れたわけです。この女性はイエスの行く手をさえぎったのではなくそっと衣の裾に触れただけです。決してイエスのじゃまをしているわけではありません。むしろイエスの方が足を止めて「自分から力が出ていくのを感じた」と言われて、そこで時間をかけておられるのです。
2.ヤイロは気が気でならなかったことでしょう。イエスの行動や言葉にやきもきさせられた方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。人生には信号待ちがあります。後少しで目的の駅という手前で電車が信号待ちをすることがあります。電車の中で走りたくなる気分です。信仰生活にも待つことがあります。「信仰待ち」ですね。つまり、神の計画があるのです。
遅かった! もうダメだ!
1. 5:35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」 と、人々は娘が死んだので、「もう全てが終わった」と、諦めました。確かに人は必ず死にます。「もう終わった」というのが人の常識かも知れません。
2.ところがイエスは 5:36 会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 と言われるのです。何を信じるのでしょうか? 人の目には終わったことが、神の目には終わっていないことがあるのです。ただ神を、イエスを信じているように言われるのです。
命の与え主イエス
死から命に変えるイエス
1.死人を生かすことのできるのは神だけです。命を支配しているのは神です。イエスは 5:41 子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。5:42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。 と、娘は生き返りました。人々が驚くのは当然です。その少女はどんな気持ちだったのでしょうか? それを目の当たりにしたヤイロ達はどう思ったでしょうか?
2.「終わった」と思った次の瞬間にどんでん返しが起きました。死だけで終わらせなかったイエス。ヤイロやこの少女はイエスが十字架にかけられた時、どうしていたでしょうか? 当然気になって気になって仕方がなかったでしょう。娘を生かしてくれた方がむごい目に遭っている。何とかして助けたいと思っても、彼らには何もできない「無力」を感じたかも知れません。
3.しかし、なんと少女を死から生き返らせましたが、イエスも復活されたのです。この時のヤイロ達の喜びはいかばかりかと思います。
マルコの伝えたい復活のイエス
1.マルコがこの福音書を書いたときは迫害もあり、クリスチャンが殺されもしたのです。その殺されたクリスチャンは誰も生き返ってこなかったでしょう。死人を生かすイエスを信じる信仰を伝えているのに生き返らないのです。
2.だからと言ってマルコは死人を生かすイエスの業を書くことをやめませんでした。なぜなら「イエスは生かすことができる」「天から軍勢を呼び降すこともできる」方だと知っているからです。神のご計画こそ最善であると知っているのです。マルコは「信仰によって」生かすイエスを書いたのです。
★ 私達が「もうダメだ」と思っても、神には終わっていないものなのです。たとえこの地上を死をもって去っても、私達の行きつく先は天の御国です。神と共に過ごす最高の場所が用意されています。「勝利」が叫ばれているところです。この地上でも主の勝利を味わいつつ歩みましょう。
□生き返った少女は何才でしたか?( )才
□その少女を生き返らせる時、そこに連れて行かれた人は誰ですか?
□今日の話からあなたは何がわかりましたか?
□今日の聖書箇所を読んであなたは何を決めましたか?
Posted by shinnakano
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