
つまずいてしまっても
2026/1/18 礼拝説教
【テーマ】 人知を超えるイエス
【説教題】 「つまずいてしまっても」
【聖書箇所】 マルコ6:1-6
6:1 イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。
6:3 この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。
マルコ6:1-6
○ ノアミュージックの「キリスト命」は「つまずいても たおれても たたかれても はなれられない あなたがいちばん 十字架がほこり どこまでもついてゆく キリストいのち」という歌詞です。たとえつまずいてもイエスを離れないということです。それにしても、今日のテキストにはイエスにつまずいた人が多かったようです。
この人は大工ではないか
大工だったイエス
1.弟子たちを連れて郷里に戻ったイエスは、安息日に会堂で教え始めました。教師としての働きをなさったわけですが、郷里の人々はイエスの教えに驚くもののイエスを理解できませんでした。
2. この人は大工ではないか。 と、いうのは「このイエスは私たちがよく知っているあの大工じゃないか」というような感じです。大工と言うと私たちには日本の大工さんを思い浮かべると思いますが、イスラエルは材木は高価で、家を建てるといっても石などを使ったので、イエスは石で家を建てることもできたでしょうし、家具や牛などのくびきなども作っただろうと考えられます。
3.そういう大工の息子で大工をしていたイエスがどうしてこんな教師になっているんだと驚いているのです。
マリアの子、イエス
1.さらに マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。 と、人々が言っています。普通「ヨセフの子で」というように父親の名前が使われる話です。ところが マリアの子で と言われています。「すでにヨセフは死んでしまっていたからだろう」という人もありますが、 ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン はヨセフの子とみんな知っていたでしょうが、イエスに関してはヨセフの子ではなく、その前に身ごもった子として知られていたからかもしれません。
2.弟ヤコブはイエスの弟子となり、「ヤコブの手紙」を書いています。ユダの手紙のユダもイエスの弟です。最初は兄イエスを理解していなかった兄弟たちも、正しくイエスを知って弟子となったのです。他に妹たちもいましたが、彼女たちも結婚してナザレの町にいたと思われます。要するにナザレの人々はこの一家のことをよく知っていたのです。でも、正しくイエスを知っていたのではないわけです。
いったい何なのだろう?
イエスは不思議な方
1. 6:3 この人は大工ではないか。マリアの子で、・・・ と、イエスを大工として、マリアの子としてしか見えない人々にとって、イエスが不思議を行い、神の言葉を語っても、なかなかイエスを信じることができません。きっと私達も同じ立場にあったらそう思うでしょう。
2.しかし、イエスは普通の人と違って癒しを行ったり、悪霊を追い出したり、奇跡を行われます。しかも、ユダヤの指導者達と違って人々を裁くように語るのではなく、人々の心に希望を与える話をされたのです。人々はそういうイエスを見ているので、大工のイエスがどうしてこんな事ができるのかと混乱しています。
イエスにつまずく人々
1.イエスの行われたことを人々は認めているのですが、自分たちの考えの限界を超えているので こうして彼らはイエスにつまずいた わけです。つまずくこと自体は悪い事ではありません。が、つまずいたまま横たわっていてはいけないと思います。彼らも この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう と考えたのですから、その答えを求めてほしかったです。
2.イエスは 6:5 それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。 と、確かに癒しを行われましたが、それ以上のことをなされなかったというのです。この言葉からも信仰がものをいうことがわかります。
つまずいても立ち上がろう
イエスを信じることがイエスの願い
1.イエスを信じた百人隊長のしもべは癒され、イエスの衣のふさに触れた長血の女も癒されました。それは彼らの信仰によってです。イエスは信仰によって業を行われるようですが、湖で舟が沈みそうになった時、弟子達はうろたえましたが、イエスはそれでも嵐を静めてくださいました。また、大勢の人にパンの奇跡を行って食べさせてあげました。信仰はどうでしょうか?
2.確かにイエスは人々の信仰が有る無しに関わらず奇跡を行うことができます。しかし、どうですか? イエス様の願っておられるのはイエスを信じることではないでしょうか。
イエスを受け入れることから始まる
1.イエスの弟たちもなかなかイエスを信じられなかったのです。この時点ではヤコブやユダもイエスが神の子であることを信じてはいません。しかし、後にヤコブは「ヤコブの手紙」を書き、エルサレム教会の監督になり、殉教しました。ユダも「ユダの手紙」を書くまでになっています。どこかの時点でイエスを「人」から「神」であると認めていくのです。つまり、そのイエスを受け入れたとき、信仰は始まるのです。神であるイエスを信じるのですから。
2.イエスを神と信じるのは確かに人間の常識では無理かも知れません。しかし、ヤコブやユダが弟子と変えられたように、私たちの家族もイエスを人としてしか信じていない段階から、神の子と信じることのできる段階へと変えられる可能性はあるのです。ある時はつまずいてもいいのです。立ち上がればいいのです。
● 今日の聖書箇所だけを読むと残念な感じです。しかし、イエスの弟のヤコブやユダが素晴らしい信仰者になっているように、他にもたくさんの方がその時はつまずいても後にイエスを救い主と信じてクリスチャンになっているのではないでしょうか。
★ 私達も信仰を持ち続ける中でなにがしかのつまずきを覚えることがあるかも知れません。でもつまずいても転んだままにならないで立ち上がりましょう。また、つまずいた方のために祈るのも私達の大事な仕事です。イエスはペテロにこう言われました。 ルカ22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。 と。私達も祈りましょう。
Posted by shinnakano
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