異邦人が聖霊を受けた!
異邦人が聖霊を受けた!

異邦人が聖霊を受けた!

礼拝メッセージ

  • 2021/5/30 礼拝説教
    • 【テーマ】  聖霊
    • 【説教題】 「異邦人が聖霊を受けた!」
    • 【聖書箇所】 使徒10:34-36,44-48

10:34 そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
10:35 どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
10:36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

10:44 ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。
10:45 割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。
10:46 彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。
10:47 「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。」
10:48 ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、何日か滞在してもらった。

使徒 10:34-36, 44-48

○ 10章のはじめに「幻」という言葉が出てきます。 

ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。その御使いは彼のところに来て、「コルネリウス」と呼びかけた。 

使徒 10:3

です。「幻」は病的な幻視とは違います。

「私は神に愛されていない」は本当か?

神はあなたを忘れてなんかおられない

私が作った歌に「山に向かって目を上げても」というのがありますが、これは自分の信仰が落ち込んだ時、そしてそこから脱した時のことを歌ったものです。神がわからなくなってきて「山に向かって目を上げる」「天に向かって手を挙げる」と神の臨在に触れるという聖書記者と同じようにしてみるのですが、全く私には感じられない。神はやはりいないのではないかと思うような自分でした。

しかし、そんな信仰欠落状態の私をもイエスは見守ってくださっていたことに気づく時がきたのです。すると今度は、動作は前と同じ「山に向かって目を上げる」「天に向かって手を挙げる」ことなのですが、今度は神の臨在の中に引き込まれてしまって涙が溢れて仕方がないという体験をしました。神は私を忘れてはおられないことを実感したのです。

神はえこひいきなんかされない

何かしら他の人ばかり祝福されて、自分は祝福されていない、癒しの証を聞くと羨ましく思い、自分は癒されない、どうも自分は神に愛されていないようだと思い込んでしまうような私でした。本当にそうでしょうか?

ある信仰書に「聖書には奇跡がいっぱいあるのに、私には奇跡が起こらないと言う人がいますが、聖書には奇跡が起こったことよりも起こらなかった方がはるかに多いのです」と書かれていました。なるほどですよね。なぜ奇跡を起こされる時と起こされない時があるのかわかりませんが、 神はえこひいきをする方ではなく とあるとおりです。また、 

神にはえこひいきがないからです。 

ロ-マ 2:11

とも書いてあります。

コルネリウスはなぜ神に受け入れられたのか?

立派な人だから?

ペテロ達ユダヤ人は、異邦人が救われるとは思っていませんでした。神はイスラエルの神であって、異邦人の神ではないと思っていたからです。コルネリウスは異邦人ですから救いをいただくことはないと思っていました。

ユダヤ人でない私たちも異邦人ですから、神がえこひいきされる方だったら、私たちも救われることはなかったことになります。しかし、ペテロの言葉 

どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます

使徒 10:35

の条件を満たしていると神に受け入れられるのです。

異邦人コルネリウスのことはこう書かれています。 

彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。 

使徒 10:2

彼は異邦人でありましたが、イスラエルの神がすばらしい神であることに気づいていたのです。その辺の偶像なんかとは根本的に違って、人が造った神ではない、真の神だと信じたのです。しかも、その行いも立派でした。このようなコルネリウスですから受け入れられたと言えます。

そうで無い人でも

しかし、イエスの十字架の時、二人の犯罪人が一緒に十字架にかけられます。その内の一人は神に受け入れられたのです。正義を行ったとは言えないですね。しかし、そこが神のあわれみなのです。だれでも救われる可能性があります。神に立ち返ることなのです。

また、ザアカイにしても、サマリヤの女にしても決して立派な人だったとは言えないでしょう。しかし、人からは疎まれても、イエスは彼らを受け入れられました。

私たちには決してわからない人の心の奥をイエスは見ておられるようです。イエスと何かがピーンときた時にすっとつながる何かがあるのです。

コルネリウスはどのようにして聖霊を受けたのか?

御言葉を聞いていたら

ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。 

使徒 10:44

とあります。コルネリウスが特別何かをしたので、聖霊が下ったというわけではなく、 みことばを聞いていた ということです。

聖霊が下ったことがわかったのは 

彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。 

使徒 10:46

ということです。それはペンテコステの日に聖霊を受けたペテロの経験からはっきりとわかったことでした。

これはユダヤ人クリスチャンにとっても驚きでした。異邦人がユダヤ化したわけでもないのに、イエスが弟子達に約束された聖霊は異邦人のコルネリウス達に下ったのです。

ただただ神の恵み

彼らは聖霊を受けてから水のバプテスマを受けました。つまり、洗礼を受けないと救われないとか、洗礼を受けないと聖霊を受けられないというのではないということです。

「聖霊を受ける方法」と言われたりすることがありますが、そういう方法論というのがあるのでしょうか? 聖霊を受けるのはイエスを自分の罪からの救い主であることを信じるならば受けるのです。聖霊は神の約束として与えられます。

しかし、クリスチャンが聖霊をいただいてそれで終わってしまうのはいかがなものでしょうか? 救われて天国に行けるようになったからそれで完了なのでしょうか? 神はあなたを神の人として用いたいのではないでしょうか。

● 大学に合格したくて猛勉強して確かに大学に合格するかもしれませんが、その後、勉強しなかったらどうなのでしょうか? 大学に入った意味はあるのでしょうか? しかし、勉強に励むなら、これからの日本、あるいは世界を良い方向に変える力を持つかも知れません。
    聖霊をいただいて、さあスタートしたのに、クリスチャンとして生きていかないならばいかがなものでしょうか? むしろキリストに倣って生きていくならば使徒達のように世界を福音化していくのではないでしょうか。

★ 神にえこひいきはありませんから誰でも聖霊に満たされることができます。聖霊が満ち溢れてくださるのはあなたをイエスのように世の光としたいからです。

  1. あなたは神に愛されていることがわかりますか?
  2. 神にえこひいきがあると思いますか?
  3. あなたは聖霊に満たされていますか?
  4. 神はなぜあなたに聖霊を与えたのですか?