難しくなる時期
柱の傷はおととしの
「柱の傷はおととしの 五月五日の背くらべ ちまき食べ食べ 兄さんが 計ってくれた背の丈 きのう比べりゃ なんのこと やっと羽織のひもの丈」という童謡もあまり聞かなくなりましたが、「ちまきよりも柏餅の方が普通のような気がするなあ」とも思ったりしていました。そして、柱の傷はおととし? なぜ昨年では無いのか? という疑問を持った人がいます。なるほどと思いました。
インターネットで調べてみると、作詞者の海野厚(うんの あつし/1896-1925)さんは、7人兄弟の長兄で、地元の静岡を離れ一人上京していたそうです。彼は病弱だったこともあり、1919年を最後に地元の静岡には帰郷していないらしく、「弟は元気に暮らしているだろうか?」と。
実家には3人の妹と3人の弟がいましたが、中でも17歳年下の春樹は、海野さんにとって特別に可愛い存在だったそうです。しばらく帰っていない地元で暮らす可愛い弟。もう2年も帰省していないが、弟は大きくなっているだろうか? 元気に暮らしているだろうか? そんな切ない思いが童謡『背くらべ』の歌詞に込められているといいます。弟思いというか家族思いの海野さんだったのですね。
この童謡を歌うと子ども時代がふっと戻ってきます。我が家にも柱の傷があります。落書きの跡、シールをはがした跡、色々懐かしい思い出です。
電車やスーパーで
そんな中で、時代は変わったなあと思う一つに、幼児がわがままを言ってもいいなりになっている親を見る時です。私の子ども時代は厳しすぎたのかも知れませんから、今の方が良いのかも知れないのです。が、目に余ることがあります。
電車、スーパーマーケット、公共施設などで、わがまま言い放題、暴れ回る、地べたに寝転んでバタバタする、そういうのを見かけて「きちんとしつけなければダメじゃないの」と思った方も多いのではないでしょうか。
ただ、最近は脳障害、発達障害の知識も一般化してきたので、あのお子さんはそういう障害があるのかも知れないと考えることも多くなったと思います。事実、いくらしつけようとしても障害があるためにしつけられない、教えられないというお子さんをお持ちのご家庭もたくさんあります。
また、障害があるわけではないが、元気で動き回るお子さんもあります。そういうお子さんはある時期になると落ち着いてくるのです。確かに難しい時期なのかも知れないですね。
育てにくい子
子どもはみんな違います。とは言え、だいたい同じような発達をして成長していきますので、共通した子育て、教育というものができますし、時には行き過ぎたマニュアル本のような子育ての本も出てきます。
いくら同じように・・・と言ってもやはりみんな違って、性格的に活発な子、おとなしい子、色々です。また、先ほども書きましたように脳障害、発達障害があるために育てにくいケースもあります。
しかし、私はアスペルガー症候群、AD・HDなどの発達障害も個性の一つであると考えています。ただ、一般的にはそれを個性とは呼べなくて、「障害」と呼んでしまいますから、辛い立場に立つ子ども、親御さんもいらっしゃいます。
確かにそういう子どもたちは他の子どもたちと同じようにいくわけではありません。そこで、親は育てにくいと感じたり、苦労を感じたりするのです。特にジッとしていない子どもの場合は大変です。四六時中目が離せないのですから。
育てやすい子
反面、育てやすい子どももいます。幼稚園くらいになると「わが子が他の子どもと違う」と気づいて、医療機関や保健所を訪ねる方がわりと多いのが「自閉症」です。赤ちゃんの時におとなしく、育てやすいと言われています。ところが成長してくると目が合わないとか、親の言葉にも反応しないとか、気になることが増えてくるのです。
また、耳の聞こえが悪いために比較的おとなしく成長する子もいます。言葉の発達に遅れを感じて受診すると、耳の聞こえが悪いとわかることがわりとあるようです。この場合は、治療をすることで治るものもあるようですが、難聴の場合は早めに「言葉の教室」などで訓練することが必要と思われます。しかし、補聴器をつけることで一気に変化することもあります。笑顔が増えることも多々あります。
ですから一見おとなしくて育てやすいという子どもはかえって気をつけた方が良いと言われたりするのです。
幼児期
では、今度は幼児期という発達における大きな変化のある時期を見てみたいと思います。
赤ちゃん時代にはそれなりに授乳やおしめ、夜泣き、トイレトレーニング、食事トレーニングなど色々な大変さがありました。それを越えて幼児期になるとそういったしんどさとは離れるものの新たな難しさを感じるものです。
その一つが第一反抗期です(反抗期というより自立期と言った方が良いのかも知れません)。「イヤ」「じぶんでする」などの決まり文句の他に、扱いにくさ、勝手な行動、汚い言葉等々が始まってきます。
幼稚園で他の子との交流によってさらに新しいことを学んできて、親を悩ませることもあります。「もう少し早くからしつけておけばよかった!」と思われる方々も多くあり、しつけを幼稚園にお任せしようとする方もあります。
「境界線」という考え方
そこで、これから時々基本的なしつけに関して「境界線」という考え方も取り入れて子育てを考えてみたいと思います。
おなかの中にいた胎児はお母さんと一体(完全な一体ではありませんが)でした。それが出産によって肉体的には母子分離が起こりました。しかし、精神的にはまだまだ母子一体状態です。ですから、赤ちゃんは自動的に自分と他の人との間の「境界線」をもって生まれてくるわけではありません。ということは子育ての中でその「境界線」を教えていくことになります。幼い頃に身につけた行動パターンは、後々にまでその人の人生に影響すると言われています。人格は人間関係の中で造られていきますので、その最初にある親子の関係、はとても大事であると考えられるわけです。
(参考:「聖書に学ぶ子育てコーチング」あめんどう発行)
父と母を敬え
母子分離をして、自分と他者との関係を見極めていくことができるようになることが子育てにおいて大事な事です。上手く母子分離していくためには、母子癒着の時期にしっかり甘え、愛されていることを最大限確認しておくことが大事です。
「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト記20:12)という聖書の言葉が、あの有名な「十戒」の第5戒にあります。父と母を敬うためには、父と母に愛されて育つことが必要です。愛されることで自分が尊重されている大事な存在であることを覚えます。
そして、自我の発達によって、自他の関係を覚えていくと、他者を大切にすること、父と母を敬う事を覚えるのです。そして、自分と他者の間の境界線を覚え、むやみやたらとその境界線を越えないことが、相手を尊重していることだとわかるのです。
聖書の中心は「神と人を愛すること」ですが、その一方だけでは人間として不十分です。その不十分さのために昔も現代も、人間関係に、家庭に、国家間に問題が起こっているのです。まさに「境界線」の問題があるのかも知れません。
自分のすべきこと、してはいけないこと、他の人のためにすべきこと、してはいけないこと、こうした事を学んでいくためには「自分」が大切にされているという体験が大事なのです。その体験無しに他の人を大切にすることはできません。
しかし、人から大切にされることも限界があり、完全な愛をすることにはなりません。そこで、目に見えないけれども「自分」を愛している神様を知らねばならないのです。その愛は聖書を通して理解に進むことができます。
教会の大事な仕事の一つは、この聖書をできるだけわかりやすくお伝えすることです。