愛を学ぶ生涯

子育て通信

境界線

 他の人を愛するためには、前にも言いました「境界線」を守らねばならないのです。国にも国境、領海という境界線があり、それを冒すことは許されないのです。その境界を冒さないことが相手国を尊重している印でもあるわけです。人の間にもそれが成り立ちます。

他者を思いやる

 自分と他者を区別することを教えていくことで、他者を思いやることができるようになります。それができないと自分と他者を区別できないで、自己中心な人間になってしまうというわけです。

 しかし、子どもは初めのうちまだまだ自他の区別ができません。特に他の人(親も含んで)が自分と違う考えをもっているということを理解するには小学校3年生を過ぎてからだと言われています。だからといって、そのまま放任しておいては境界線をもたない、相手を困らせる子どもになってしまうことも目に見えています。

 子どもはその多くを親の行動から学びます。親がいかに他者を尊重しているかというその姿を見ているのです。特に身近なお父さんとお母さんから学びます。

責任と自由

 成熟した人には責任感があります。責任を果たすというのは、言われたことを確実に実行するということだけではありません。子どものうちは親の支配、親の庇護、親の保護などの中にいなければ生きていくこともできませんが、大人になるというのは自分自身の生き方にも責任を持たねばならないのです。自分の能力、才能、時間、人間関係等にも責任を持つ必要が生じるのです。他の人に依存して生きるとのでは困るわけです。とはいうものの現代日本は依存症の人が大変増えています。子ども時代の何かが影響していると思われます。

 日本も自由社会ですが、多くの人が自由を履き違えているといわれています。自由に生きるためには多くの責任を果たし、義務を果たし、人のことを考えること無しに自由に生きることはできません。ところが、「自分が不利益を被るのは誰それのせいだ」というような被害者意識が強い人がいます。子どもの中にもいるわけです。せっかく自由に生きることができる時代にいながら、人のせいで自分は被害を被って自由を奪われていると思い、積極的に生きられなくなるのです。

 こうした事も、「境界線」が冒されているからなのです。自分と他者をわきまえることを教えていくことによってこうした問題も解決していくのです。

真に成長する人

 私たちは子どもに成長して欲しいと願っています。子どもが成長しないのは大問題です。ところが、体が大きくなることだけが成長ではないわけです。同じく、勉強ができるようになることだけが成長では無いのです。よく心身共に元気であるように、と言いますが、聖書がいうように人間は体と心(魂)と霊をもっているので、この三つにおける健全な成長が必要なのです。その成長を子どもたちは始め、母親から、そして、さらに父親を含む他の大人から学ぶのです。もう少し大きくなって子ども同士の関わりの中で学ぶのですが、それだけでは成長しきれません。子どもは自然を体験しながら、神の言葉を教えていただきながら成長するのです。

 そうした時に子どもは、困難を乗り越える力を身につけたり、人を赦すことができるようになったり、自分の責任を果たすまでは他のことはしないでいられるとか、自分の過ちを認められるとかいったような力がついてくるのです。こうしたところにこそ成長した人の姿が見られるのでは無いでしょうか?

愛を追い求める

 つまり、「愛」を学ばねばならないのです。聖書にも

愛を追い求めなさい

Ⅰコリント14:1

とあります。

 ところが、愛にしても幸福にしても人によって捉え方、考え方の違いがあります。特に現代日本は価値観の多様化の時代とも言われていますので、常識さえも人の数だけあるのかも知れません。そういう中で大事なのは変わらない価値観です。やはりそれは聖書としか言いようがありません。

 愛の表現は人によって、国や地域によって、時代によって違ったとしても、「愛」の本質は変わらないのです。その本質が聖書にあるとすれば、やはり、子育てのために聖書を読むというだけではなく、自分自身の生き方のためにも聖書を読むことをお勧めします。

 聖書が教える愛はまず神様そのものです。つまり神様が愛です。人間は神様によって造られ、神に似せて造られましたので、全ての人には「愛」の種があります。それが発芽し、成長し、実を結ぶかどうかが問われます。

 赤ちゃんにも愛の種があるわけです。お母さんの愛によって赤ちゃんの愛の種は生長するのです。続いて、お父さんや他の人の愛を受けて、さらに成長します。

 しかし、人間の愛は「完全」ではありません。「愛」という完全なように思えるすばらしいものですが、人間の愛は「愛憎」という言葉があるように、愛していたはずなのに、いつしか憎しみに変わっているということさえあります。しかし、神様の愛は決して憎しみなどに変わることがありません。

 また、子どもを愛しているのだけれども、過保護、過干渉なまでに愛してしまい、子どもをダメにしてしまうこともあります。しかし、神様の愛にはそういうことがありません。まさに「愛は完全」なのですが、それは神様の持っておられる愛であって、人間の愛は不完全であることを覚えなくてはなりません。

 ところが神様はその不完全な愛の持ち主である、しかもまだまだ人間として成熟もしていない若いお父さん、お母さんに子どもを育てるように計画されました。ですから完全な子育てができるはずがありません。それを神様はよしとされたのです。「愛を追い求めなさい」と聖書にあるのは、お父さん、お母さんが愛を追い求めて生きる、愛の求道者であることが子どもにも大事だからです。子どもはそういう親から多くを学ぶことができるのです。

 道を間違ってしまった子どもたちが立ち返ることができたことを聞くと、やはり親の愛を感じて、「このままではいけない」とか「親に申し訳ない」とか感じて、立ち返っていくのです。親が愛の求道者である時、子どもたちも愛の求道者になっていくのです。

 子育ては完璧を求めるものでは無いと思います。求めたくても多くの親御さんは、子育てをするので精一杯というのが本音かも知れません。

 赤ちゃんが、子どもが、親に頼ってくるように、そして親に寄り添っている時平安であるように、私たち大人も私たちの造り主である神様に頼るのです。側に近寄って安心をいただくのです。するととても平安になるものです。

 子育てには親の側の「安心感」が必要です。不安で一杯のまま子育てしていては子どもにも不安がつきまといます。心穏やかな子になれないかも知れません。

 愛を追い求めるとはイエス様を追い求めることでもあるのです。聖書の中には、まじめにイエス様を追い求めた人達が出てきます。裏切られたケースは無いです。

子育て通信

Posted by shinnakano