クリスマスの目的
クリスマスプレゼント
東京に来て17回目のクリスマスを迎えます。子ども達にクリスマスプレゼントをしなくなって何年になるのでしょう? ちょっと子育て中のクリスマスが懐かしくなってきました。
小さなクリスマスツリーを押し入れから出してきて、子ども達と一緒に組み立て、飾りと電球をつけます。コンセントにつないで電球が点った時に必ず子ども達は歓声をあげていました。
妻と一緒に子ども達のプレゼントを何にするかはなかなか難しい課題でした。
私たちは牧師ですからクリスマスを家で祝うのは教会の諸集会が終わってからというのがほとんどでした。12月25日がクリスマスなのですが、街では24日にほぼ終わってしまい、25日にはお正月の準備になっているのです。しかし、わが家は25日にクリスマスのお祝いをしていたと思います。
イエス様のお誕生をお祝いして、感謝のお祈りをして食事とケーキを食べました。
どんなお祝いしてる?
そして、いつも思ったものです。イエス様のお誕生日だけれどそのことを思ってこの日をお祝いしている人はどれくらいいるのだろうか? と。
人は生まれてきたからには全ての人にその生きる目的や価値があります。たとえそれがわずかな地上生涯であってもです。では、イエス・キリストの誕生の目的は何でしょうか?
ほとんどの人はイエス・キリストの両親の名前を知っています。ヨセフとマリアです。そして十字架にかかった方だということも知っています。しかし、その十字架が目的で生まれてきた方だと知っているでしょうか?
罪・妬み(ねたみ)
十字架は犯罪人がかけられる死刑の道具でした。しかし、イエスは犯罪は犯されませんでした。それはイエスの裁判をしたピラトという総督が「この人に罪は無い」と言っていることからもわかります。では、なぜ罪のないイエスが殺されたのでしょうか? それは当時のユダヤの指導者達の妬み(ねたみ)であり、自分たちの考えに沿わない教えをしたという理由で無理矢理十字架刑を求めたのです。
妬みというものにちょっと着目してみませんか? 皆さんには妬みはありませんか? 「隣の家の芝生は青い」と言いますが、隣が良く見えてしまう。うらやましい。妬ましいということですね。
旧約聖書に十戒が出てきますが、その最後10番目は あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト20:17) です。
「うちの子は隣のこと比べて勉強ができなくて、隣の家がうらやましい」などと言うのは妬みになるのです。
妬みは他の人の持つものを欲しがるだけではなく、それを持っている人が失うことを願う気持ちもいうのだそうです。つまり他の人の持つ幸せを奪いたい気持ちでもあるのです。
指導者たちの妬み
イエス様の時代、ユダヤの指導者達は人々の尊敬を得ていたのですが、それは何も人々に良くしているから尊敬されていたのではなく、彼らの言っていることが神の言葉だと思いこまされていたからです。
しかし、そこにイエスという本当に神の言葉を語る方が現れ、しかもイエスは人々を励ますような言葉を語られ、病に苦しむ人を癒し、悪霊につかれて苦しむ人から悪霊を追い出していましたので、真に尊敬されたのです。そのため、人々の目は一気にイエスに向きましたので、ユダヤの指導者達はイエスを妬んだのです。
この妬み心はイエスの命を奪おうという思いに発展するのです。それがイエスを十字架にかけて殺すということになっていったのです。
私たちの妬み
私たちから妬み心を無くすことができたら、どれほど幸せでしょうか? すなおに自分の伴侶を愛せるし、子ども達を愛することができるでしょう。
人の持つものを妬むというのは自分を卑下しているのです。他の人の才能や持ち物をうらやましく思ったり、人の地位を妬んだり、「あの人の伴侶の方がいいなあ」とか、「うちの子よりあの子の方が勉強ができてうらやましい」とか思ってしまいやすいものです。
私たちは幼い時から比較されて、また比較して大きくなってきたのです。勉強も点数化されてわかりやすくなっています。こういうシステムに飲み込まれて人々は数字の大きい方を望んでうらやましがったり、妬んだりするようになってきたのではないでしょうか。
ユダヤの指導者達が人々に自分たちの言っていることが一番正しいと思い込ませていたように、現代の子ども達はこのシステムが正しいと思い込まされているということはないでしょうか?
そして、子どもの時から妬みを持つようになっているとしたらなんと悲しいことかと思います。子どもには笑顔いっぱい、喜びいっぱい、感謝いっぱいで生活して欲しいなあと思います。
その罪の身代わり
さて、イエス様が十字架にかけられて殺されたのは、ユダヤの指導者達の妬みからだと言いましたが、それは同時に全ての人の妬みであり、罪の結果です。
しかし、神はこの十字架を全ての人々の罪の身代わりの道具とされました。ユダヤの指導者に見られるイエスを殺そうという罪は「イエスを神と認めない」「イエスを愛さない」という罪であり、この罪は私たちにだってあるわけです。
罪は人を「死」に向かわせます。人が死ぬのは当たり前ですから、なぜ死ぬのかなどあまり考えたことはないかもしれません。でもこの当たり前のことが起こる割には、死後のことを当たり前に知っている人はどれくらいいるのでしょうか?
聖書は神が人に命を与えたと記しています。聖書によると人が死ぬのは人の罪の結果です。本来人は神と共に親しく過ごすことができたのですが、罪のためにそれができなくなってしまいました。
罪を赦すためにはそれなりの償いが必要です。しかし、人の罪は大きすぎてお金や動物のいけにえ程度では解決できないのです。そこで、私たち以上のお方イエス様が身代わりに死ぬことで、罪を赦してくださることとされたのです。だからこのイエス様が「私たちの救い主」だと言われるのです。
クリスマスを祝う
クリスマスはこの救い主(キリスト)が誕生されたことをお祝いする日です。
しかし、単なる誕生日としてのお祝いの日ではないのです。このお方がこの地上にお生まれくださったことによって、私たちの罪の赦しが完全になり、神様との隔てが無くなったことを喜ぶことにあるのです。
神は愛ですから、私たちのことをどの人も愛しておられます。えこひいきもありません。
私たちもそのように妬むことなく、うらやましがることもなく、ストレートに家族を愛し、人を愛することができたらどんなに幸せでしょうか。
ご一緒に教会でクリスマスをお祝いしませんか。そして、聖書にある神のメッセージをお聞きになりませんか。皆さんへの尊いメッセージが語られています。