越えられる波

子育て通信

一人で力まない

 子育てで大変な時期は一般的には出産後の授乳期、第一反抗期、第二反抗期ですが、これはあくまでも一般的であって、子どもはみんな違うのですから、大変と思える時期も違って当然です。
 時には、小学生になって万引きをしたとか、不登校になってしまったとか、とても気の弱い子で元気がないとか等々あると親も確かに大変でしょう。また、発達障害や精神障害等を持つということもあるでしょう。
 しかし、大変さを抱きしめないことです。我が子を抱きしめましょう。大変な波を乗り越えることができるものです。ただ、一人で力まないことです。

休ませてあげます

 イエス・キリストの言葉ですが、

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

マタイの福音書 11:28-30

という、私の好きな言葉があります。好きというより、この言葉で助けられた一人と言ってよいでしょう。
 親も大変ですが、その裏には子ども自身が辛く悩んでいるという姿があるのです。親も子どもも一人で悩んではいけないのです。先ずはイエス・キリストに頼ってみてください。そして、助けてもらえるところがあることも知ってください。
 親が「自分は一人ではない」とわかると元気を得ます。そして子どもを安心させ、その状況から良い方向に進むよう励ますのです。それは明るい言葉、笑顔、笑いです。

新しい方法がある

 こんなのがネットにありました。「いいなあ」と思いました。
 子供自身が困っている気持ちを上手に表現できず、「悪いこと」を繰り返せば、大好きなママから怒られる回数は増えてしまう。
 ママに「理解してほしい」「共感してほしい」という想いは受け止めてもらえずに、怒られる回数が重なると「自分は悪い子」というセルフイメージが子供の中に育っていきます。これは自己肯定感(自分が価値がある人と認識したり、自分の存在を大切に思う気持ち)を下げることにつながりかねません。
 癇癪が起きたその時、どうしても反射的に口で注意しがちです。でも、「やめなさい! 」と声をかけて子供はやめるでしょうか?
 効き目のない関わりはやめて、子供の癇癪がはじまったらすぐに子供のそばに行き、しっかりと抱きしめ、手を握ってあげます。子供に触れることで行動を止めてあげるのです。もし暴れてしまうくらいに激しい時には、危険回避の為に子供の手と足の行動を制限するように抱きしめるのも有効です。
 抱きしめたあとは、子供の気持ちを受け止めましょう。「○○が嫌だったかな?」「□□がしたかったかな?」ママが思い当たる理由を言葉のシャワーにして伝えると、子供はママが自分を理解しようとしてくれていることを感じられます。
 「ママのことを呼びたかったら、パンチじゃなくて、ママの肩をトントンってできる?」
 「嫌なことがあったから、『お話を聞いてほしい』って言ってくれる?」 「『悲しい気持ちになったよ』って言うのはどう?」
 「『今怒ってるよ!』って教えてくれる?」
 子供の力に合わせた気持ちの表現方法を、一緒に考えて次に繋げていきます。ここでのポイントは、ママが行動を指示したり、決めたりするのではなく、「子ども自身が決める」ということです。自己決定により再び同じ場面になった時に、ママと一緒に決めた「新しい方法」を思い出す可能性が高まります。

 今まで自分の考えに無かったことを考える力が与えられるといいですよね。大変なのは何も子育てだけではありませんが、他のことにも言えると思います。私はいつもイエス・キリストにまず頼っています。

第九の怒濤

 学生時代、京都の美術館でロシアの美術展をしていました。全体に暗い絵が多かったのですが、その中で私が引き込まれた絵がありました。「第九の怒濤」と題が付いていました。
 嵐で船が沈み、板きれにつかまっている人達が右上の日の光を見上げている絵でした。解説を読むと、「嵐の海では、第一の波から第二、第三と波が次第に大きくなり、第九の波で最高潮に達して、それを乗り越えると波が治まってくる」というようなことが書いてありました。

 人々が「この波を乗り越えれば助かる」という思いで嵐の終わりを告げる日の光を見ているこの絵は日の光の明るさはもちろん、人々の気持ちの明るさを感じさせたのです。
 美術館を出ようと思ったのですが、どうしてももう一度見たくて、そこまで戻ったものでした。
 この絵のように、子どものことで大変なことがあったとしても、必ず乗り越えられるものです。

試練

 聖書のこんな言葉を思い出しました。

 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

第一コリント 10:13

 というものです。
 試練というものは必ずといっていいほどあります。時にそれは一人の人に重くのしかかるようにしてやって来ることもあります。「なぜ?」と問われてもわかりません。
 本人はとても辛いです。「なぜ、私だけがこんな苦しい目にあわなけれはならないの!」という悲痛な叫びを聞いたことが何度もあります。
 私自身もそのような体験をして神に文句を言った経験があります(神に文句を言うなんて、恥ずかしい話ですが)。

イエスの受けた試練

 そして、イエス様の十字架の話を思い出したのです。イエス様こそ、「なぜ、私が十字架にかからなければならないのですか?」と言っても当然なお方でした。
 人々のために尽くされたのに、ユダヤ人の指導者達のねたみから十字架刑にされてしまいました。しかし、イエス様はそれを何の文句も言わずに受け入れられました。それはその大きな試練「十字架による死」にとてつもなく大きな神のご計画があることを知っておられたからです。
 私は聖書からイエス様が十字架にかかられた意味を知ることができました。それによって自分の苦しみにも「試練」を感じる事ができ、逃れの道があることを信じることができました。

 私たちは自分の受けた試練に対してその計画を知らないので、自分だけが苦しい目に遭っていると思い込みやすく、腹を立てたり、その苛立ちを子どもに向けたり、あるいは自分に向けたりしてしまうのです。

本 虐待死より

 岩波新書の「虐待死 なぜ起きるのか,どう防ぐか」という本を読んで、心が傷みました。「なぜこんな幼い子どもが親によって殺されなければならないのか?」「どんなに辛かっただろう」と。その事件の数々はここに書き表さなくてもニュースで知らされていることです。

 そして、親がどうしてそんな行動をとることになったのか、本当に辛い思いで読みました。「しつけ」と「体罰」の境目がわからなくなってしまい、自分のストレスの解消となってしまっているのです。
 また、体罰は無くても、食事を与えない、ほったらかしで餓死させてしまうというネグレクトもあります。これも虐待です。
 「どうして?」「どうして?」私のような者にはなかなか理由がわからないまま読み進めるしかありませんでした。「殺す気は無かった」「まさか死ぬなんて」という親の言葉。
 親の精神的安定が必要なのでしょう。一人で力んでいるのではないでしょうか。波(試練)はやってきます。しかし、越えることができます。ただ、一人で越えようと思わなくていいのです。誰かに助けを求めればいいのです。
 そして、私は経験上一番の助け手がイエス様であることを知ったのです。

子育て通信

Posted by shinnakano