愛の戒め
ボケ
あちこちで木々が芽吹きだしています。教会の駐車場に数年前に小さなボケを植えましたが、今年も赤い花が咲き出しました。私はこの花が好きで(名前が好きなのだと思います)、道を歩いていてもボケを見つけると嬉しくなります。
先日、中野区役所のそばを歩いているとピンク色のボケを見つけました。ボケは赤だけかと思っていた私には感激のひとときでした。
ボケに限りませんが、冬場に花も葉っぱも落ちてしまう木々も2月、3月には新芽、花芽が出てきます。一見枯れたように見えても、枝が木につながっているから生きているのです。すると確実に時期が来ると芽を出すのです。
ぶどうの木
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
ヨハネの福音書 15:5
この聖書の言葉をご存知ですか? この前後にもっと詳しく書かれているのですが、イエス・キリストがぶどうの木で、私たち人間はその機につながっている枝だということなのです。そして一番最初に、
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」(同15:1)
とあって、父なる神様が農夫であるというイエス様のたとえ話です。
ぶどうの枝が木につながっているとその枝から小さなぶどうの房ができてどんどん成長します。
当たり前のことですが、枝が木から切り離されていたら、当然実を結ぶことはありません。
イエス様はつながっていることの大切さを教えているのです。私たちがイエス様につながっている必要があるということです。
愛着
子どもは成長して親を離れますが、それまではしっかりつながっていなければなりません。そうでないと、いつ頃からでしょうか有名になった「愛着障害」になります。「愛着」は子どもにとても大事なことで、特に母親に子どもがくっついて、「愛されている感」をしっかりもつことで形成されます。この「愛着」が不十分ですと、思春期、あるいはそれ以後にも何らかの問題・障害が起こりやすいと言われています。「しっかりとくっついていること」がいかに大事かということです。
私はこの「愛着」という言葉を知る前から「子育ての会」などでは、〈普段から抱きしめること〉、〈子どもの話をしっかり聴いてあげること〉を語ってきました。子育てに抱きしめはとても大事だという話は何も今に始まったことでは無く、昔から言われています。ですが、愛をもってギュッと抱きしめる、喜んで抱きしめる、笑顔で抱きしめるということを実践していただきたいのです。
そのためには特に母親がそのような気持ちになれる環境であるかということも問われます。つまり、ご主人の協力やご主人の励まし、笑顔、労りといったものが必要だということです。子育ては夫婦の共同作業であることは言う間でもありません。
イエス様のハグ
そうすると、大人の私たちは「抱きしめ」というのはどうでしょうか? 一時「フリーハグ」などと言って「ハグ」されることで心が安まる、満たされると言って「ハグ」が流行りましたが、大人もどこかこういう「抱きしめられ」を求めているのかも知れません。
それはしっかりつながるということだと思うのです。しかし、どこにつながるかというはとても大事なことではないでしょうか。
イエス様はイエス様につながることが一番大事だと言われています。私ももちろんそう思います。
子ども達で親に十分愛されなかったために色々と精神不安定になったり、障害をもってしまったりした人達が、イエス・キリストを知って、イエス・キリストにつながるということを覚えて徐々に変えられていく話はたくさんあります。
直接触れないイエス様なのですが、大人になったそういう人達は、「9歳の壁」を越え、思春期を越えることで直接的な「抱きしめ」を体験しなくてもイエス様に愛されていることを実感するのです。
抱きしめて押さえた男の子
しかし、まだ子どもの場合はイエス様のお話をしても、充分に感じ取れずにいることが多いので、大人が愛情をもって代わりに抱きしめることで効果が出ます。
子どもの中にはこの愛着が不十分なために激しい行動に出たりすることがあります。
その中で典型的だったのは、小学生の男の子が大暴れして泣きながら道路に飛び出そうとした事件でした。
私はどんな出来事があったのか知りませんでしたが、その男の子のことをよく知っていたので、急に道路に飛び出しては危ないし、異常な状態であることはすぐわかりましたから、その子をギュッと抱きしめました。彼は私の手を振りほどいて逃げようとしましたので、さらに強く抱きしめて「何があったのか話してごらん」と言いました。が、泣きじゃくるだけで何も答えてくれません。その間もすごい力で逃げようとします。車も時々来るような道で、歩道に座り込み抱きしめ続けました。
時間は覚えていませんが、10分以上抱きしめていたと思います。腕が疲れたし、これからどうしたらいいだろうかと困っていましたら、彼の体から力が抜けていくのを感じました。「もう大丈夫だ」と思えた私も力を緩め、「大丈夫かい?」と聞きました。驚いたことに彼は「ぼく、どうしてここにいるの?」と聞き返すのです。ハッとしました。彼はその間の記憶を失っているのだとわかりました。彼が怒り、泣きながら道路に飛び出そうとしたことを話しましたが、彼は全く覚えていませんでした。でも、抱きしめてしばらく待つことで彼の心が落ち着いたのは事実です。後に彼は「愛着障害」をもっていることがわかりました。
愛し合うこと
イエス様はぶどうの木のたとえ話の後にこのように語られました。
ヨハネの福音書 15:12
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
要は人が互いに愛し合うことなのです。しかし、忘れていけないのは、私たちが神様、イエス様に愛されていることなのです。子どもは親に愛されていることがわかっているのでしょうか? 思春期、第二反抗期を迎えると親のことをバカにしたり、ひどいことを言ったりするものです。その時、多くの親は「この子が幼い時、あんなにしてあげたのに」と悲しくなることがあります。「子どもも親にならないと親の気持ちを理解しないものだ」と言われています。私自身もそうだったなあと思います。人の気持ちになるというのはなかなかできるものではないです。
子どもが「自分は親に愛されなかった」と言ったとしても、そんなことはまずあり得ないです。親の方は「愛したんだけどなあ」と・・・
同じように、人々はなかなか神様に愛されていることに気づかないのです。親が子どもに愛してきたことに気づいて欲しいと思うように、神様は私たちを愛していることに気づいて欲しいと思っておられます。
聖書には色々な命令・戒めがあると思っている方が多いのではないかと思います。確かに旧約聖書には、神様からユダヤ人に対しての、あるいは人々に対する命令は多くあるように思えます。しかし、その基本は有名な「十戒」です。10の戒めです。
しかし、これも要約するとイエス様が言われた「神を愛しなさい」「人を愛しなさい」という二つになります。つまり「愛」なのです。イエス様の命令、つまり神様の命令とは「愛しなさい」ということなのです。誰を愛するのかというと、すべての人なのです。しかし、一気にすべての人というのはハードルが高いでしょう。まずは夫婦が互いに愛し合うこと、家族が互いに愛し合うことからだと思います。