目に見えない愛こそ大事

子育て通信

新型コロナウイルス

 新型コロナウイルスの問題が思いのほか重大でしかも長引き、皆さんのご家庭でも大変苦労なさったのではないでしょうか。私たちの教会もかなりのイベント・集会を中止しました。そのために多くの方々、子ども達と会えなくなって大変さみしい思いをしています。この問題が早く収束するように教会挙げて祈っています。
 しかも、子どもセンターが3月13日に卒園式を行って、子ども達ともお別れをしましたので、大変さみしい思いをしました。何と言っても一年だけの子どもセンターですから毎年この繰り返しです。

ウグイス

 3月中旬、朝の8時頃、私が仕事をしているとウグイスの鳴き声が聞こえました。急いで窓を開けて探したのですが、見つかりません。鳴き声のする方に耳を傾けるのですが全くわかりません。見つからないのですがウグイスは確実にいるのです。
 同じように神様も見えないのですが、確実におられます。
 目に見えないウイルスを恐れますが、神様を恐れるでしょうか? 美しい鳴き声に嬉しくなってウグイスを探しますが、美しい自然をくださった神様を喜んで探すでしょうか?

おはようブック

 子どもセンターの子ども達が昨年の4月に入園してきた時、どうやってセンターに慣れてもらおうかと保育士も一生懸命でした。
 そんな中で私は保育士のしているいくつもの温かい配慮に感動を覚えました。その一つをここに書こうと思います。
 それは、「おはようブック」という出席シールを貼るノートです。子ども達はどこにシールを貼っていいのかなかなかわからないものなのです。そこで、保育士はその貼る場所に小さなしるしを書いてあげるのです。そのしるしが星(☆)であったりハートであったりするのですが、時には自動車、動物、新幹線など、その子の喜ぶものを描いてあげるのです。みんな笑顔になってそこにシールを貼ります。たくさん子どもがいるとこんな事もしていられないかも知れませんが、幸い7名定員の子どもセンターですからできるのかも知れません。登園した最初のまだ緊張している時間に、保育士の笑顔とこうしたちょっとしたことで子ども達も笑顔になるのです。

 あの「おはようブック」を見てもそこには子ども達が貼ったシールしか見えないと思います。しかし、そのシールが貼られて見えなくなっている下の部分にも、このような保育士の愛情が注がれているのです。

見えないもの

 愛情、愛というものは往々にして見えないものです。子どもを預かって保育、指導することは親に見られていない中で行うものです。ですから、それは信頼されているという認識の中で行っています。
 同時に私たちは、神様は見ておられるという信仰に立っています。親御さんに見られて困るようなことは当然してはいけないでしょうが、それよりももっと神様に見られて困るようなことは無いようにしているわけです。

 私はあの「おはようブック」のシールで隠れた部分に保育士の愛情があるように、神様の愛もなかなか見えないものだと思うのです。
 見えないから気づきにくいのは当然ですが、見えないから無いのではないです。

見えなくても存在する

 小学生だと「空気」が見えなくても存在することは知っています。「電気」もそうだと思います。見えなくても空気を吸って生きているとか、電気だとそれによって電灯が灯るとか、テレビが映るとかそういうことで空気や電気の存在を理解できるのですが、愛とか友情とかになると空気や電気などとはまた違ってきます。
 確かに親の行動や言葉で愛の存在を知ることができるのですが、やはり空気や電気とは違ったものです。

 では見えない神様はというと「空気」のように存在するのですが、また同じとは言えません。

お母さんが欲しい

 昔の話ですが、お金持ち夫婦の女の子が小児麻痺にかかり長く入院していました。お父さんは仕事で忙しく、病院に見舞いに来ることはまずありませんでした。旅行好きのお母さんは長期のヨーロッパ旅行に出てしまったそうです。その子の誕生日、彼女は病院で看護師さん達から「おめでとう!」と言ってもらいましたが、当然元気がありません。そんな時、ヨーロッパから誕生日プレゼントが届きました。お母さんから高価な美しい花瓶のプレゼントだったそうです。看護師さん達は「うわー、すごい!よかったねえ!」と叫びました。しかし彼女は布団をかぶって泣き出しました。そして、「プレゼントなんかいらない。お母さんが欲しいのに」と泣きながら言ったというのです。

 子どもにとって大事なもの、子どもが本当に求めているものは何でしょうか? 「愛」なんです。彼女のお母さんに愛が無かったとは言いませんが、誰もが気づいてくださるはずです。

愛は目に見えない

 親は目に見えます。親の愛の行為も目に見えます。しかし、親の「愛」は目に見えません。ところが子どもを生かすの親の「愛」なのです。
 聖書にはこんな言葉があります。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

コリント人への手紙 第二 4:18

 この言葉が言っている見えないものは神様であり、神様は「愛」なのです。もちろん神様は永遠ですが、「愛」ももちろん永遠です。お母さん方が子どもに与えようとしているものもこの永遠に続く「愛」なのです。そして、「愛」は目に見えないからこそ尊いのです。あの女の子がいくら高価なヨーロッパの見事は花瓶をお母さんから誕生日プレゼントにもらったとしても、真の幸福を感じはしなかったのです。
 私たちも神様から目に見える色々なものもいただいていますが、実は目に見えない「愛」をいただいているから、今生きているのです。
 普段、親と共に過ごしている子どもは親のありがたさが良くわかっていませんから「プレゼント」という「物」にばかり意識が行くのでしょう。しかし、本当に困ったことが起こった時、お父さん、お母さんがいるだけで幸福を感じるのです。大人になって両親が亡くなってしまっても、親の愛は残っているので、生きる力になるのだそうです。

離婚家庭の子どもの辛さ

 ジェームズ・ドブソンというアメリカの発達心理学者でラジオで子どものことを語り続けた方が、その著書の中の一項目に「離婚が子どもに与える影響」というのを書いておられます。これも昔の話ですが、
 離婚家庭の子ども達の90%は、両親が別居した時点で、強い悲しみやいわれのない恐れなど、大きなショックを経験しています。またその半数の子は、「自分が見捨てられた」と感じています。父親の半数は、実に離婚後3年経っても、一度も子どもに会いに来ていません。その結果、三分の一の子どもは、「今いる親にも捨てられるのではないか」と恐れています。また約7割の子どもは、「親に会いたいという気持ちを抑えられない」と答えています。37%の子は「親の離婚から1年半後よりも、5年後の方がより辛い」と証言したことは特に重要です。
 この話は夫婦の勝手を戒めるものではないでしょうか。
 夫婦の間にこそ「愛」が必要なのです。愛は神様からいただいたので人間も愛し合うことができるのです。その神を離れては愛の力も失せるのです。ですから神に信頼して愛をいただけばいいのです。

 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

ヨハネの手紙 第一 4:16

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Posted by shinnakano