民のつぶやき

礼拝メッセージ

2024.10.13礼拝
【説教題】民のつぶやき
【聖 書】出エジプト記16:1~3,9~12
【説教者】藤井佳子牧師

【新改訳改訂第3版】 出エジプト記
16:1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。
16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。
16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
16:9 モーセはアロンに言った。「イスラエル人の全会衆に、『【主】の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから』と言いなさい。」
16:10 アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。【主】の栄光が雲の中に現れた。
16:11 【主】はモーセに告げて仰せられた。
16:12 「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、【主】であることを知るようになる。』」

出エジプト記16:1~3,9~12

民のつぶやき

イスラエルの民は、エジプトでの奴隷生活から解放され、モーセに率いられてそこから脱出した。彼らは約束の地カナンを目指して40年もの間荒野の旅をする。現代に生きる私たちは、彼らがどのくらいの年月旅をするのかを知っているが、この当時の彼らは知るよしもない。
今回取り上げた出エジプト記16章には、エジプトを脱出してから一ヶ月経ったときの出来事が記されている。この先どのくらいしたら、約束の地に入れるのか。彼らが持参した食べ物は尽きてしまう。まず食べなければ旅も続けられない。彼らの不安は高まるばかりであった。そこで、かつて水が飲めなかった時と同様に、彼らはモーセとアロンにつぶやいた(出16:3)。民数記には、エジプトで彼らが、肉、魚、きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくなどを食べていたと記されている(民11:4、5)。だが、奴隷の身分であったので十分食べられたわけではないだろう。苦しい生活から、神は彼らを解放し自由の身としてくださった。エジプトを出る時、昼は雲の柱、夜は火の柱となってご自身を示し、民を導いた。そして、海の中に道を作り、彼らは神の奇跡を目の当たりにしたではないか。にもかかわらず、彼らはつぶやき、主の手にかかって死んでいたらよかったとまで言ったのである。しかもそのつぶやきは一人、二人のものではない。「全会衆」とあるので、大規模な反逆であった。

主に向かって祈るべき

水の時と同じように、またしても彼らはモーセとアロンにつぶやいた。そのつぶやきは、モーセとアロンに対してではなく、実は神に対するものである。( 出16:8 モーセはまた言った。「夕方には、【主】があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを【主】が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、【主】に対してなのです。」)彼らが本来すべきなのは、主に向かって祈ることだ。それが出来なかったのは、主を信頼していないということだ。一ヶ月間の旅によって、彼らは疲労困憊し、さらに酷暑や食糧難に見舞われた。のみならず、カナンとは全く違う方向へ向かう自分たちはどうなってしまうのか。不安に陥るのも無理はないことかもしれない。人は困難に陥るとき、以前の良い時代を振り返るものであるし、自暴自棄になって死んでしまいたいとさえ思う時もある。しかし、私たちを救い出した神はそれを望んでおられるだろうか。「救い出される前のエジプトへ帰ってはならない。私はこれほどまでにあなたを愛しているのに。」と主は思っておられるのである。(出 13:17 さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」 13:18 それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。)

応えてくださる神

このような民のつぶやきにもかかわらず、主は応えてくださった。それは「マナ」といわれるパンのような不思議な食べ物であった。マナは、白い霜のような細かい物、うろこのような物(出16:14)で、その味は蜜を入れたせんべいのよう(出16:31)、またクリームのようであった(民11:8)。
主は、毎日天からマナを降らせ、それを毎朝1日分(1オメル=2.3リットル)だけ集めよという。余分に集めて夜を越すと虫がわき悪臭を放った。ただし、6日目には2日分集め、煮たり焼いたりして保存するように命じた。なぜなら、安息日には働いてはならないからである。神は人々が主の言葉に従うかどうかを試みられたのである。彼らの中には、この言葉に従わず、7日目に集めたものがいた。が、何も見つけることはできなかった(出16:27)。こうして、主につぶやいた民は、神が主であることを知る。(出16:12)神はまた、マナだけではなく、肉すなわち「うずら」を降らせてくださった。(民 11:31 )
マナには、実は深い霊的な意味がある。モーセの時代のパン(マナ)は、ただ単に肉体的な必要を満たすものであった。だが、人々に霊的ないのちを与えるまことのパンがある。それは、イエス・キリストである。マナは天から降ってきたが、それと同じように、キリストは天からこの地上に下り、全人類の罪を負い、私たちの身代わりとなって死んでくださった。このイエスを食べる(信じる)者は、決して霊的に飢え渇くことがない。また決して死ぬことがなく、永遠に生きるのである。(ヨハネ6:35,48~51)

結び)
日常生活でついつい神につぶやいてしまう私たちだが、神は必ず応えてくださる。つぶやかず、神を信頼して祈って行こう。