判断力を育てる

判断力を育てる

子育て通信

子どもの飛び出し事故

  先日、NHKラジオを聞いていてこんな事を知りました。子どもの事故で多いのが「道路への飛び出し」ですが、それは周りを見ていないがために飛び出してしまうこともそうなのですが、もっと大事なことがわかったというのです。それは、向こうの方から走ってくる車が「まだ来ない」と思って飛び出すということらしいのです。
  その研究をしていた先生はこの番組でこのように言っておられました。「判断力ができていない」と。この言葉に私もピクッときたのです。道路への飛び出しはもちろん大変危険です。子どもは基本的に走りますから、すぐ道路にも飛び出します。中には車を見ずに、信号機が青になった途端に飛び出している子もいます。「危ない!」と思ったことが度々ありました。
  このラジオで語っておられた先生の言葉「判断力ができていない」ですが、ではどのようにして判断力を身につけることができるのかを考えたいと思いました。

遊びが変わった

  子どもたちの遊びは大きく変化しています。最近特に男の子はゲーム機を使う遊びが増えました。昔はそんなものがありませんから、とにかく外で遊んでいました。木登り、泥んこ遊び、ボール遊びなどはそういう基本的な遊びでした。
  私の子ども時代にした遊びを思い出してみると、かくれんぼ、ビー玉、めんこ(べったんと言ってたのですが)、ドッジボール、野球、鬼ごっこ、釘刺し、ケンパ、肉弾、靴隠し、虫取り、崖登り、ザリガニ釣り、コマ回し、どうま、馬跳び(何歩と何歩)、字ほり、まだまだ出てきそうなのですが、忘れてしまっているようです。
  雨の日には室内で、トランプやお手玉、おはじき、ということもしていましたが、ボクシング、プロレスごっこ、ハンカチ落とし、等々です。
 ゲーム機の無かった時代というのは、遊びも豊富だったんだなあと思いました。でも、今の子どもたちだって、こういう遊びが嫌いで、ゲームをしているわけではないと思います。
  実は、そうした遊びによって色んなことを学んでいます。人間関係はもちろんですが、判断力もそういう遊びから身についてくるものです。

年配者の判断力低下

  「車はまだ来ない」という誤った判断力は、実は年配者にもあります。年配者の事故で、横断歩道で無いところを横断して車にはねられる事故が多いそうです。子どもは割と横断歩道を渡ることに忠実ですが、大人は今までの経験から横断歩道で無いところでも、「渡れる」「まだ車はここまで来ない」と判断するのです。ところが、渡れたのは若いときのことです。年をとると確実に歩く速度、走る速度が遅くなります。それに気づいていないことと、向こうの方からやって来る車に対する判断力が落ちているからです。

危なっかしい遊び

  子どもたちの判断力はどのようにして形成されるのか考えてみましょう。
  たとえば子どもたちが水たまりを跳び越えようとします。年上の子達は簡単に跳び越えますが、小さな子は真似をするものの跳び越えられず、バシャと泥水の中にはまり込みます。これが水たまりなら汚れるだけの話なのですが、少し幅のある溝を跳び越えるとなるとどうでしょうか? 大変危ないですね。大きな子は跳び越えられるのですが、真似をした小さな子は溝にはまり込んでしまうかも知れません。
  しかし、子どもというのは好奇心に満ちていて、こうした危なっかしいことをしたがるのです。跳び越える、木や塀によじ登る。高いところから飛び降りる。石などを投げたがる。色々ありますね。でも、それを安全なところから徐々に難しいものに挑戦していけばいいのです。
  「これくらいは跳び越えられる」という判断力が繰り返してやっているうちに身についてくるのです。いわゆる勘が働くのです。
  野球でボールを思うところに投げるのにどの程度の練習をすればできるようになるでしょうか。そうです、何度も何度も投げて力と勘を養うのではないでしょうか。

判断力と感覚

  子どもたちの遊びを見ると、さきほどの水たまりを跳び越えるようなことは絶えずやっています。ブランコから飛び降りたり、ジャングルジムの途中から飛び降りたりしています。遊びの中で自分はどれくらいのことができるのか体得していくのです。
  感覚的にこれくらいは跳び越えられる、飛び降りられるというのは何度も何度も遊びの中で体験してつかみ取っていくのです。数をこなすことで、脳は跳び越えられるという判断をくだせるのです。
  木登りもそうですね。何度も木に登ることをしているとどれ位の木なら登ることができるという判断ができるのです。そういう感覚が身につくのです。

  教師時代、生徒に私が高校受験、大学受験のためにやっていたことを教えたことがあります。それは、テストの問題を最初から解くのではなくて、まず全体を見わたすことでした。何度も問題を解いていると自分が解ける問題と難しい問題の判別ができるようになるのです。生徒に「この問題なら解ける」と思ったところから始めるようにと教えました。すると、何度かこうしたことを練習していた生徒が「先生、今度のテスト、見えた!」と言ったのです。つまり解けそうな問題が見えたということです。そういう感覚が身につくのです。

親の勘

  お母さんにとっては赤ちゃんの時から泣き声を聞いていて「この泣き声は大丈夫」「この泣き声は変だ!」と判断する力がついてきます。時にはその判断力はお医者さんよりも優れています。
 そういう判断力は子どもが大きくなって何か隠し事をしていたり、危なっかしいことをしても、子どもの仕草などで判断できるようになっています。「母親の勘(あるいは父親の勘)」というものです。ただ、思春期になるとそう簡単にはいきません。親の勘をかいくぐるようなことをしてきます。それでも、長い間共に生活してきた親子、不思議な勘が働くようになるのも事実です。他の人にはわからない、親子で繋がっている不思議な感覚があるのです。

イエス・キリストの勘

  私はイエス様にはそういう判断力(勘)がすごくあったと思うのです(それはイエス様が神様であるので、人間の判断力を超えるものかも知れませんが)。
  人々が嫌っているザアカイという税金取りをイエス様だけは見逃しませんでした。ザアカイの心がさみしさに満ち、生きがいを失っていることを見抜かれたのです。
  ですからザアカイがイエス様に声をかけられたとき、驚きと同時に不思議な嬉しさが心に満ちました。
  彼はすぐにイエス様を自宅に迎え入れ、食事の席を用意するのですが、この時彼は、イエス様に自分の罪を告白し、「だまし取った物は4倍にして返します。財産の半分は貧しい人に分け与えます」と言ったのです。
  イエス様と友達になれたことであのさみしさは消え、生きがいを見出したわけです。一人の人の人生を変える愛の判断力。私も身に着けたいのですが・・・

  こうしたことは単に机の上だけの知識では得られません。繰り返して実行し、失敗の繰り返し、こうした積み重ねの中で判断力が身につきます。

  しかし、運動会でお父さんが転ぶのは「昔はこれくらい簡単に走れた」という記憶が現在の判断力を鈍らせるのでしょうね。

子育て通信

Posted by shinnakano