#90 捨てることのすすめ
命を捨ててはいけない
多くの災害に驚くこの2011年です。地震、津波、台風、竜巻など、それも大型の災害と来ています。
ある人は財産を捨てられなくて家に取りに帰って命を失っています。時には思い切って捨てなくては自分の命も危なくなります。
殻を捨てる
東京で蝉の抜け殻を見つけると、宝物を発見したような気持ちになります。しかし、田舎に行くと抜け殻も嫌というほど見つかります。私は小学生の頃、蝉はかわいそうな昆虫だと思っていました。7年くらい土の中で幼虫として過ごし、外に出てきて成虫になると1週間の命だというからです。しかし、土の中の生活も大切な時間だと考えると昆虫の中までは長生きしている方になると思います。
多くの昆虫が殻を脱ぎ捨てて成虫になります。蛍の幼虫は条件が悪いとその年に成虫にならないという話を聞きました。成虫になれないのです。
人間も大人になれない少年・青年という話をよく聞きます。人間の場合はどのような条件でそうなるのでしょうか? 子ども、少年、青年の殻を脱ぎ捨てて大人になってもらわないといけません。
甘えを捨てる
自立して当然の年齢でありながら、いつまでも親の指示を待っている人がいます。あるいは、結婚して家庭を持ち、子どもが生まれ、新しい家庭をつくっているはずなのに、やたら実家に帰っている人がいます。(もちろん実家に帰るのがいけないと言っているのではありません)依存心が強すぎることが問題だというわけです。
幼い時期の「甘え」には大事な意味があります。十分に甘えておかないと自立が遅れるとも言います。ですが、「甘え」を卒業しないとすれば、それは問題です。時には自分で意識して「甘え」を捨てる努力が必要になります。
ヨセフの捨てたもの・捨てなかったもの
私は旧約聖書に出てくるヨセフに多くを学ぶことができると思います。彼は17歳まで父ヤコブ(イスラエル)に溺愛され、兄たちと違って特別待遇で育ちます。まさに甘えの中に埋没していたのです。
そんな弟を見ていると腹が立ったのでしょう、兄たちは彼を憎みました。そして、ある日、父親のいないところで彼を殺すことができる状況に出くわしました。ところがちょうどそこにエジプトへ向かう商人が来たので、ヨセフを奴隷として売り飛ばしてしまったのです。
奴隷としてエジプトに売り飛ばされたことによってヨセフの人生は変わります。全く甘えることができなくなったヨセフは不幸な人生を歩むのかと思いきや、幸いなことに彼は素直な人で神をまっすぐ信じていました。そのことで彼は奴隷でありながら、ある時は牢獄の中にありながらも、多くの人から信頼されるのです。そして、彼の性質と能力が買われて、エジプトの大臣になりました。
長い7年間の飢饉が来ることを神様から知らされたヨセフは、それまでの豊作の7年間に地道に食料を蓄えるように指導しました。お陰で飢饉が襲ってきてもエジプトはビクともしませんでした。各地からはエジプトには食料があると聞いて、食料を買い求めに来る人が多くなりました。そのため、エジプトはますます裕福になっていきました。
そんな時、自分を売り飛ばした兄たちがエジプトに食料を求めてやって来ました。もちろん弟ヨセフがエジプトの大臣になっているなんて誰も知りません。ヨセフの方はすぐに兄たちだとわかりました。そして、兄たちがヨセフだとわかると殺されるものと思ったのです。しかし、ヨセフは兄たちを赦し、「私が今ここにいるのは、この日のためだったのです」とさえ言うのです。そして、イスラエルの一族はエジプトに移り住み、救われたのです。
このヨセフ、17歳までの生き方のままだったら、彼はどうしようもない人になっていたであろうことは簡単に想像できます。彼がその父の家を捨てなければならなくなった時から彼の新しい生き方が始まります。彼が捨てたのでは無いのですが、結果的に多くのものを捨てることになったのです。彼は何も持てず、自分さえ捨てるしか無かったのです。
ところが、そのヨセフは捨ててはいけないものをしっかりと知っていました。神への信仰です。彼はこれだけは捨てませんでした。なぜか? 溺愛されたとはいえ、愛してくれた父の信仰を日々実感していたからです。彼は捨てるべきものと、捨ててはいけないものを見極め、真実に生きました。お陰でエジプトの大臣となり、多くの人々を救う人になったのです。
自分を捨てる
よく「自分を捨てよ」「己を捨てよ」と言われます。しかし、それは簡単なことではないです。物でさえ一旦自分のものとして持つと愛着がわき、捨てられなくなるものです。ましてや自分自身を捨てることができるでしょうか?
しかし、わが子のために自分の臓器を差し出す親、出産時にわが子を生かすために死んでいく母親、わが子が事故に遭いそうになって飛び込んで助ける親、そういう話を聞きます。「私にはできない」と思っていてもその時になると同じ事をしていたということもあるでしょう。自分から捨てられなくても「その時」にはそうしている。それは普段から何を捨て、何は捨ててはいけないのかを見極めて生きる人にこそできることなのでしょう。
子育てには色々な方法がありますが、何もかも大事なのでしょうか? 案外少ないのかも知れません。捨てることで見出す子どもの善さがあるのかも知れないですね。