七五三に思う

子育て通信

子どもと天国

 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。
 「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

マルコの福音書 10:13-16

 この聖書の言葉には何度も何度も考えさせられました。

 イエス様はあちこちでいっぱいお話をされ、病気の人を癒やし、苦しんでいる人を助けてこられました。大変忙しかったし、この時もまだその忙しいさなかだったのではないでしょうか。
 そういう時に時の人となったイエス様に祝福していただこうとして、子ども達を連れてきた親たちがいました。たくさん来たのだと思いますよ。そうすると、子ども達は結構うるさいものです。
 きっと弟子達はイエス様がお疲れなので、うるさい子ども達によって疲れが増すのを配慮して、子ども達を排除しようとしたのだと思います。そこで、弟子達はその親子達を叱ったのです。

 ところが、イエス様は反対にそうした弟子達に憤られました。子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。 と、排除した弟子達と反対に、子ども達を迎え入れました。そのイエス様の言葉を聞いた子ども達は安心して、笑顔になってイエス様のところに来て、イエス様に抱かれたと思います。

 イエス様の続きの言葉が 神の国は、このような者たちのものです。 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。 でした。子どもって天国に入れそうですね。むしろ大人の方が心配な気がします。

 教会でも、日曜学校(教会学校、新中野キリスト教会では「子ども教会」と言っています)や、子どもの集まりで聖書のお話をするとすごく素直に聞いてくれます。そして、反応も良いですし、神様を疑うこともなく、すっと信じます。
 それは子ども達がお母さんを信じているのと同じです。また、お母さんやお父さんに愛されている子は、神様が自分のことを愛してくれていることをスッと信じます。愛はまず親から学ぶからです。

七五三祝福式

 新中野キリスト教会では毎年「七五三祝福式」というのをします。11月15日に近い日曜日にするようにしているのですが、昨年できなかったからと1年遅れで行う子もいます。要するに七五三の年齢にそんなに厳密ではないのです。しかも、七歳、五歳、三歳なら男の子でも女の子でも構わないのです。いっそのこと子ども達全部を対象にしようかと思うこともしばしばなのですが、一応今までに習って七・五・三歳で行っています。

 教会なので、お祓いとかはありません。子ども達に牧師が祝福のお祈りをします。その時、参列している教会のメンバーも心を合わせて、心込めてお祈りしてくれます。
 どんなことをお祈りするのかというと、子どもの健康や安全もですが、両親に従う心を持つこと、友だちと仲良くすること、将来の祝福を祈ります。さらに私たち人間では、親といえども子どもに与えることのできない、神様ならではの祝福を与えていただくことを祈るのです。

 着物で来る子、ジャージで来る子、全く問題なしです。私たちはどの子もみんな平等に愛される神様に祝福していただけるように祈ります。

 祝福を祈ると言いましたが、聖書にはそうした言葉がたくさん出てきます。親が子どもを祝福するように、神様は私たちの創り主ですから、私たちを祝福したいお方なのです。
 改めて皆さんの祝福をお祈りします。

子どもを愛するって?

 さて、イエス様は子どもをどのように愛されたのでしょうか? 聖書にはあまり子どもの事って出てこないのです。
 でも、女の子が死にかけているというのでイエス様が呼ばれた時、イエス様はその家に向かわれました。行った時はすでに女の子は死んでいましたが、「娘よ、起きなさい」と言って生き返らせました。
 また、たくさんの人がイエス様の話を聞きに来てお腹が空いていた時に、少年がパンと干し魚を持ってきました。イエス様は喜んで、そのパンと干し魚を受け取ると、感謝の祈りをして、みんなが食べた上、余るほどに増やされました。
 それは子ども達のことを本当に愛しておられるからなのです。

 私たちも子どもを愛していますから、病気の時には何とかして治したいと病院に連れて行ったり、時には寝ずの看病をしたりします。
 また、疲れたなあと思った時に子どもが肩たたきしてくれたりすると嬉しくなり、「ありがとう」と心から言うものです。
 こうしたことは愛の姿であり、子どもの心には何かしら温かいものが伝わっていくのです。
 脳科学者はこうした時に、子どもの脳にどのような刺激があり、どのようなホルモンが出、どのような場所に記憶されるのか調べています。そして、愛された子どもは愛する人になるという結論を出しています。

愛の基本「安心感」

 「愛」を覚える初めは「安心感」です。まずそれはお母さんに抱きしめてもらえること、お母さんの笑顔を見ることです。お腹がすけばおっぱいを飲ませてもらえること、それもお母さんの笑顔を見て、やさしく抱いてもらって、完全な安心を得る所から始まります。
 もちろんその前にお腹の中で安心しているのですが。
 こうした赤ちゃんの時のお母さんに対する安心感から、愛されること、愛されていることの喜びを感じていくのです。それがしっかり積み重なるために、人間には成長するのに時間がかかるように神様はされたのかもしれません。

笑顔とスキンシップ

 少し大きくなると、笑顔でのスキンシップによって、子どもの心に大きな安心感を与えていくことができます。
 子どもには「笑顔」も「スキンシップ」も大事です。笑顔は大人だってよくわかるように、人に安心を与えます。幼い時に笑顔を見続ける子どもは心が安定すると言われます。

 スキンシップは幼いうちは子どもの方から求めてきますが、少し大きくなると子どもの方からは求めてこなくなります。そのままスキンシップをとらなければ、スキンシップを好まない人として習慣化するかも知れません。
 しかし、幼い時のように抱きしめというようなスキンシップではなくても、背中をさするとか、足の指をクリクリとマッサージしてやるとかすると立派なスキンシップで、その触れ合いから安心感を持つ続けます。

話をすること

 さらに子どもとお話をすることが大事です。子どもは自分の話をしっかり聞いてもらえることで安心感を持ちます。「聞く」というのには「聴く」とか「訊く」という漢字が使われます。
 「訊く」はまさに訊問(尋問)です。これは子どもの話を聴くにはふさわしい聞き方ではありません。
 「聴く」は耳を傾け注意して聞くことで、この「聴く」というのが、子どもの話を聴く時に必要な聞き方といえるでしょう。
 話を聴いてくれる人には「話そう」という気になります。また、聴くことは自分のことを受け入れてくれていることが通じますから、子どもにとって大きな「安心感」の元となります。
 目に見えないイエス様は今も私たちの話を聴いてくださっています。「祈り」という言葉を使いますが、たとえ言葉にならなくてもイエス様は私たちの心の中を誰よりもわかってくださっています。
 まずはイエス様に話しかけてみてください。あなたにも安心感が満ちてきますよ。

子育て通信

Posted by shinnakano